歌人として天才である鎌倉幕府三代将軍である実朝はどんな人だったか。彼には後見である大江広元と叔父である北条義時に養子をとってくれって頼むという吾妻鏡の史実がある。それをすんなり受け入れた彼らはどうかしてると古来いろんな推測があるらしい。
まず、普通に考えて青年期にかかった天然痘の影響で性的におっくうになっていたことだと思う。吾妻鏡にも天然痘で痴ほうの障害が残ってしまった人がいて、昔の疫病はいろんな病気を呼び込んで大変だったようだから何かあったのかもしれない。
でも、人間のあいだには心の交流がある。エロスが動くのだ。
実朝は恋の歌が結構ある。もちろん、あの頃は僧侶でも恋の歌を歌う。恋愛小説が小説の王道なんだから、歌の世界もそうなんである。だから、あってもいい。
しかしですね。
詞書で
忍んで契りを交わしていた女性が、「遥かなる方へゆかむ」
結(ゆ)ひそめてなれしたぶさの濃(こ)紫(むらさき)思はずいまもあさかりきとは
髪を大人として結い始めたころからの付き合いの、たぶん、初恋の人への情熱的な別れの歌ですよね。思い人があったのだろうか。
でも、これは男性への別れの歌なんじゃないかなって解釈もある。なぜなら、髪をそいで仏門に入ることを暗示させるからだと思う。
それを竹宮恵子先生の吾妻鏡では採用してますな。出典はわからない。
彼の側近で和田朝盛という人がいる。この人はほんとに身近にいて忠義を尽くしていたらしい。彼は最初は実朝の兄である頼家の近習に取り立てられていた和田義盛の嫡孫である。
ドラマではこれから起こる和田合戦ととき実朝のところに行かないよう軟禁されていて、やっとこさ直前の月見の歌会に参加したらしい。その時、実朝にいろいろと領地の約束をされた。それを打ち払って彼は仏門に入った。その時に実朝の名をつけた実阿弥と名乗った。
結局は彼は弓の名人だったので逃げる途中に祖父に呼び戻されて合戦に参加した。それを生き延びて承久の乱で宮方で参加した。
息子がいて、彼は親戚の佐久間という家に入って父親と戦ったらしい。
あの当時でも忠義の人として尊敬されていたのだろう。
その忠義は二人の情愛ではないかという説があるらしい。わからん。しかし、朝盛はほれていたんじゃないかと思う。実朝はわからん。
ふたりには和歌をめぐる話もあって、歌の返歌のお使いをする話もある。朝盛が返事をもらってこいと言われて歌の名人を探し当てる話である。
庭に植えた特別な種類の梅が咲いたときに
君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端に匂う梅の初花
と歌って梅を送った。
返歌は塩谷朝業っていう和歌を代々学んだ家柄の人が返した。
うれしさも匂いも袖に余りけりわがため折れる梅の初花
この話は朝盛が歌が得意でなかったのでお使いをしたエピソードだ。
そうなのだ、鎌倉殿の泰時の話はこの話をもとにしている。泰時という人は好学でいろんな本を読んでいた。兄貴分として本の紹介をしたりもしたらしい。
そして、実朝の和歌の会にも熱心に参加していた。承久の乱ののちに藤原定家のところに通ったりしたそうだ。
しかし、二人の交流はほぼ記録にない。泰時は恋愛の歌がほぼないらしい。それどころか、奥さんとなぞの離婚をしている。その後の愛人との子がいたらしいが影が薄い。
それゆえの三谷幸喜の想像なんだと思う。
実朝という人は次世代の若い鎌倉の人に憧れられたところがある人らしい。
女性と関係がなかった宮沢賢治にちょっと似てるなって思う。実朝は愛妻家ではあったようだが。彼も非常にもててる。文学好きの若い人のなかでは知る人ぞ知る人だったそうだ。
そういった実朝の人格がいろいろな人な心に残り、大好きな人が結構いたのだと思う。その彼がテロで殺される。切ないことである。美しい恋愛があったと思いたいと後世の人は感じる。