oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

曽我兄弟の里に行く

 

曽我兄弟を祀った曽我神社です。


 曾我物語の舞台である曽我の里に梅のころ行ってきました。

 近くなので時々行くのですけど、曽我物語について記述した坂井孝一さんの2000年の「曽我物語の史実と虚構」を読んで視点が変わったし、やはりと思ってとこもありました。

 今回初めてJR松田駅から御殿場線下曽我駅まで行ってみました。まだ、咲き始めてだったんですけど、梅畑のトンネルを通り抜けられるようです。ぜひ、電車で。

下曽我駅です

ここのお饅頭は抜群においしいです。

駅前の看板です。この地が水害の地であることが記されています

 これが駅から観光地である梅干しの産地である曽我梅林に行った成果かな。この土地は貧しい、でなければ梅林なんか経営するはずかないって、ずっと感じてました。

 この土地がに梅林ができたのは江戸時代に歌舞伎の曽我物がはやり、聖地巡礼がはやったころらしいです。それまでは取れ高が安定しない田んぼではなかったかな。

 

梅林の中心です

 まだ、梅が咲きそろっていません。梅畑のおかげで古い田んぼの区割りと用水路が残っています。

古い梅干し用の十郎梅という品種が主なので、満開でも華やかさにには欠けますが、梅干しはおいしいです。でも、いいのは売店でも2千円ぐらいはするかな。

梅林の上の方に曽我兄弟を祀った曽我神社があります。

 ヤドリギがみごとです。

彼らの両親のお墓や館跡もこの丘陵にあります

 鎌倉時代に開けた場所は南向きで水はけがよい緩やかな高台に必ずありますね。

松田方面の

周辺の案内図です。


 上大井駅まで歩いてみます。よく曽我梅林のポスターに使われているのはこのあたりです。晴れていたら富士山がきれいです。本数は少ないですがバス亭があります。さびれていますがいいところです。案内にもありますが坂下は大友の里です。

 曽我物語を見ると、曽我兄弟が頼朝を襲った時、最初に防いだのは大友の領主である大友能直です。隣だったので顔見知りだったのでしょう。

 彼の母はお隣の領主だった波田野氏の出身で頼朝の女中だった利根局です。この地の相続を許され、新しい苗字、大友ももらいました。北条朝時も婿にとり、成り上がった人です。大きな館を構え、頼朝を招待したこともあったようです。彼らの間には先祖からの小競り合いがあったのでしょう。

 大友は曽我より平坦ですが水害が多く、大友氏はのちに九州に下り、大友宗麟の先祖になったみたいですが。

 そんな貧しい土地に父を亡くした曽我兄弟が連れ子で行ったのは、義父が祖父であった伊東祐親の甥だったからだそうです。将来、土地を分けてやるからとの約束ですが、祖父は頼朝に恨みを買っていたし、負けてしまったので、義父は養うのが大変だったみたいです。

 そんな彼らを夫婦は弟を仏門、口減らしにと思ったのに勝手に兄が北条時政に頼み元服させてしまい、ご近所の御家人にたかり、大磯の遊女やに出入りし、挙句の果ては、富士の巻がりでかたき討ちをして、悪口を言われていた頼朝を襲う。鎌倉の明暗の闇を表現したような二人だったみたいです。

 その後、五郎が稚児だった箱根権現の関係者が話を聞き書きして、愛人だった大磯の遊女である虎御前の周辺の芸能者が語り広がったのが「曽我物語」だったようです。

 鎌倉末にはやったようですが、「貧道の物語」と言われていたようです。社会ってなんか考えさせられます。坂井先生の本でそんなことが浮かび上がってくる。ちなみに彼が中世研究を志したのは母に「曽我物語」を読んでもらったこと、そして、大学時代に能の「小袖曽我」を舞ったことらしいです。

 

この二つはお高いので読めてません。最新の研究はこちらをどうぞ。

こちらが2014年の著書。

 

2005年作です。箱根神社、大磯も回っているようなので読みたいです。