河村城跡に行ってきました。前からあるのは知ってましたが何なんだろうなって思ってました。
山北町を支配した河村氏という氏族のお城らしい。彼らの話が記録に出てくるのは二度ほどです。その二度目にこのお城が出てきます。ときは南北朝のころ。南朝についた河村氏は新田義貞の子孫とこの山の上に立てこもったらしいです。
堀があちこちにめぐらされていて、橋が必要です。
橋を渡ってみると広いです。
思った以上の広さです。どうやら村人すべてと立てこもったようです。
貯蔵蔵のあとがあり穀物とかも発掘されたみたいです。城の入り口に井戸もあったようで現地のひとが農業されていました。家畜もかってられるようでした。
家来衆の曲輪もあったようで大庭郭、近藤郭という名前が残ってますね。大規模な発掘は平成5年ごろにあったみたいです。
この案内は蔵部というところにありました。とにかくしっかりと山城のあとがのこっている。なぜか、ここで合戦がなかったからです。
河村氏の人たちは山を下り酒匂川沿いの南原というところで戦いやぶれて逃げたからです。人々を巻き添えにしたくなかったからかもしれません。だからか、何人かのご子孫は残ってられるようですね。
河村氏が出てくる一度目は吾妻鏡です。石橋山の合戦で敵の武将のひとりとして河村義秀という少年が出てきます。なぜ、彼が合戦に参加したか。それは父を亡くしていたからです。
本家である波多野氏は内紛もあり力が弱っていたようです。そして、元々は頼朝の義兄の実家であったはばかりもあったのか参加していません。
頼朝が鎌倉に入ったあと、彼は頼朝に味方した大庭景親の兄、大庭景義にかくまわれます。そして、鶴岡八幡宮での流鏑馬に参加して御家人として仕えることになります。
そしてもうひとつのエピソードは、奥州平泉との戦いで近習として従軍していた、彼の13歳の弟である千鶴丸の話です。奥州で活躍して、元服を許されて河村秀清となり奥州に領地を賜る話ですね。現在、河村と言えば東北の人みたいです。
彼はのちに承久の乱で宇治川の戦いで手柄をたてたそうです。彼らの母である人は頼朝に仕えた京極の局という人らしいです。
彼らが守りたかったふるさとです。
このお城は山北駅から20分です。山北小学校そばから車でも行けます。道が険しく細いので注意してください。山北は鉄道でも有名な町らしいです。鶴瓶さん来てました。