oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

「波多野氏と波多野荘」地方と都


この本にある画期的な事は波多野氏は最初は佐伯氏だったという研究らしい。

佐伯氏とは何か。彼らは元々は帰属した蝦夷をたばめて軍団とした長が名乗った苗字だ。古代の軍事貴族だった大伴氏のうち、その役目を負った人たちが名乗った。

奈良時代聖武天皇に仕えた人に佐伯今毛人という人が出た。彼は東大寺の建設の責任者だった。軍人たちは土木作業員に転任されていたのだろう。

彼は長屋王の乱や藤原仲麻呂の暗殺未遂などの政治にも深くかかわった人らしい。そして、佐伯院という屋敷に佐伯真魚をいう天才少年を養った。のちの空海だ。

彼は名前は消えているけど、奈良時代の重要人物だ。角田文衛は吉川弘文館で彼の評伝を残している。

 空海は海運業の一族の出だ。どうやら、佐伯氏は蝦夷だけでなく、鉱山、林業、海運など、米作以前の産業の人を子分にとりこみ、血族を送り、苗字を与えたらしい。

 その一つが秦野盆地にいた人々だった。秦野市平沢に古代のわりに大きい円墳がいくつかあるがその人たちかもしれない。古代、東海道はここを通っていた。金銀も少しでたらしいから、縄文のころから米作が盛んになる前までは栄えた土地なのだろう。

 彼らは東大寺の建設作業にかかわったのかもしれない。なんでも、僧侶側の責任者が良弁という伊勢原市の人だったから。良弁は漆部氏という寒川神社を中心にした一族の人だそうだ。名前を見ればわかるが漆加工を主にした人々だ。うるしは建材の防水、そして、矢じりの接着なんかに使われた大切な素材だったらしい。

 その一族に秦野の漆窪に生まれた漆部伊波という人がいる。話はずれるが、秦野には窪という地名が残っている。どうやら、火口跡みたいなんだけど。そこにうるしの木の畑があったのだろうか。

奈良時代の地名が新興住宅のてっぺんの公園に残っていました。残ってるもんです

細い川の集落。ここが本来の漆窪だと思います。北矢名という地名から弓矢用の竹畑があったようです。和田義盛が岡崎氏の遺族のために武器を作らせていたという伝承が鶴巻温泉にのこっています。



この人は漆をはじめ東大寺の物資を調達して大富豪になったらしい。聖武天皇東大寺建設の寄進をして従5位右衛門助の官位まで得た。そして、難波津に倉庫も許された。

伊勢原の大山の大山寺は東大寺で稼いだお金で良弁と伊波が創建したそうだ。寒川神社とセットに信仰された古代信仰の場所らしい。

大山寺縁起では伊波は鎌倉に住んでたことになってるそうだが、それは漆部氏の人たちの一部が鎌倉に入って鎌倉氏になっていったからかもしれない。

実際は子孫は河内の人になったみたいだ。佐伯氏もそうだが、藤原冬嗣のころから古代豪族は没落し地下の人たちになった。にわか成金の伊波など吹き飛んでしまったらしい。

 佐伯氏は米作以前の産業を担うありふれた苗字になってしまった。それで秦野の佐伯経範という人が鎌倉氏の母を持つ源義家に従って、後三年の役で手柄をたて、藤原秀郷の子孫で相模の国守になった人の婿になった。なんでも有名な歌人を出した教養のある家だった。その時、摂関家に領地を寄進し波多野荘が成立し、波多野氏となったらしい。

そして、京都の人との婚姻が始まる。波多野義通が文字が書けて、主君である義朝に疑問を生じたのはそのあたりなんだろう。うん、この本はその成立とご子孫の動向を描いたものなのだな。

 佐伯経範と一緒に戦った人には三浦氏の祖先もいる。そのころから源氏は相模を根拠にしているのである。