私はフランコ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」が好きだった。河合隼雄の本を読んでいたとき、あれは女の子の性的な衝動を描いたもんなんだよって、さりげなく書かれていた。
親御さんは男の子だけでなく、中学生ぐらいの女の子に気を付けてください。決して、ぞんざいに扱わないで下さい。そう書かれていた。
あの戯曲は、精神的にはロミオより大人なジュリエットが彼を死の破滅の道連れにする話なんである。
昔から若手のスターが主演できる演劇として残ってきた話だ。それをゼフェレッリ版ではジュリエットと同世代だったオリビア・ハッセーを主演にしたのが成功の理由だと思う。
彼女は、のちに布施明という東洋人と恋に落ち結婚してしまうような無謀なことをする感情に歯止めがないタイプに思える。役に引っ張られたってこともあるかもしれんが。
女役があった時代からあった戯曲だったので、上演されるときは若手スターにロミオを演じさせて売り出すことが多かった。チャンパラ場面も売り物だし、若い男性がたくさん出てくる演劇でもある。レオナルド・ディカプリオ版はまさにそうだ。
でも、あえて劇を読み込んで、ゼフィレッリはジュリエットが重要だと、ハッセーを発掘した。
それはゲイだった彼が、性的衝動について深く考えたからだと思う。私は彼の自伝を読んだ。それを読むと彼が美貌の少女の私生児だったことがわかる。彼は若くして母を亡くした。自伝の主な部分は、その生い立ちと、美少年となった彼が、愛人の一人としてビスコンティに見いだされ、演劇の演出をふくめ教育され、そしてぼろ布のように捨てられた悔しさの話だった。彼は主にオペラの演出家として大成した。そして、映画でも成功しようともくろんだ。
そんな彼が絞り出した、母を追想した映画が「ロミオとジュリエット」だったと思う。
あの映画以後、ジュリエットが発掘され、演じられるときはロミオと同等な扱いになったと思う。もちろん、シュークスピアもそう思っていたけど、今はそれが鮮明に理解されるようになったと思う。時代が進む画期的な映画だったと思う。
じゃ、私は男の子はって考えると思い出すのは、近松門左衛門の「女殺し油地獄」だ。「女殺し油地獄」は近松の最後の戯曲だ。この戯曲は当時は陰気だと評判が悪かったそうだ。戯曲としては傑作とされていたので残った。
それが明治になって、シュークスピアの紹介で有名な坪内逍遥が、近代的な話じゃないかと言って復活したそうだ。そして、最近は歌舞伎役者、坂田藤十郎こと中村扇雀の尽力でよく演じられる演劇になった。
この話は道楽もののわかもの、河内屋与兵衛が、義父がこっそりと金を渡すように頼んでいた、近所の年上の人妻であるお吉を金を余分にとるために、殺してしまった実話をもとにしている。
まあ、当時でも今でもありそうな不条理な話だ。
近松は恋愛を売る遊郭での心中事件を多数描いているけど、相方の美女が出てこないこの話をなぜ描いたのだろう。
この与兵衛は自分を腫れもののように扱う、母と再婚した義父に反抗し、遊郭で出入りして金を散在したり、不合理な世の中に反抗し、武士に喧嘩を吹っ掛けたりする。そして、両親や気の毒な病身の妹に暴力をふるう。まあ、典型的なありふれた不良少年だ。あげくの果ては無関係な女性を殺した。
油屋の女房だったお吉殺しの場面を油まみれで殺す場面が見せ場なんだが、文楽のお人形の動きがすごいのだが、当時の評判通り、陰々滅滅だ。
それは近松が少年に同情せず、ちゃんとリアルに馬鹿として描いているからだ。心中ものでも、登場人物の愚かさを描いていると思うけど、恋愛で同情を誘う。それがない。あるとすれば、若い女に対する嗜虐だ。
この芝居が演じづらいのは主役は、若い俳優だと悪の要素が強い人でないといけない。しかし、この振る舞いを分析して演じられるのは、ある程度の年齢が必要だろう。だから、抽象的な人形を使った文楽の語り物という形が最適なんだろうけど、リアルな巷のはなしであるがゆえに、花がない。
最近の五社英雄監督の解釈では、お吉は与兵衛を性的に誘惑していたことになっている。善良にみえる女性の悪意も描ける時代になった。表題、女殺しですもんね。
近松も自覚していたと思うし、世間も感じてたと思う。男にとっての女性とはということですね。
その女はさっさと番頭とくっついた母なんだろうか、彼をもてあそんだ遊女たちなんだろうか。はたまた、病気で脅していた妹なんだろうか。お吉と彼のほんとのところは分からん。下世話な想像は当時でも動いただろう。だから、近松には、幼子の母である彼女が気の毒で好奇心をそそったのだろう。
しかし、これらの話が書かれ、読み続かれたのは、どうしようもない若いときの、破滅につながる性衝動をどう扱うかの問題提起なんだろうと思う。それを古典の多面的な豊饒な海がいざなってくれる。