子供と一緒にジャンプを読んでいたとき、まんが「ヒカルの碁」が気に入った。囲碁の面白さを描いた漫画で、一時ブームになったのだけど、中学生の少年になぞの平安時代の囲碁の天才が憑依して、プロの道を進むという話だった。
面白かったのは、私が中学生のころ、別の人格が自分を見下ろしているような感覚があったからだ。冷静な自分がいて、感情に振り回されている自分に怒っているようなかんじだった。そのわけが何となく知りたいって思って読んでいたような気がする。ほんとに混乱していた。
いろいろと調べてみると原作者のほったゆみは「すべてがFになる」を書いた森博嗣の若き日のマンガ同人仲間であった。夫である堀田清成もそうで、原作は夫婦二人の共作であったらしい。不思議だったのは,ほぼ、長編処女作の50代の人だったことだ。よくジャンプの人も採用したと思う。プライベートな成長への思いは強い力があったんだろう。
囲碁の話も面白いけど、思春期の人格の揺らぎ、急激な変化が描かれていた。なんで、こんなに描けるのかなって不思議だった。もちろん、すごい表現力をもつ作画の小畑健の力も大きいと思う。
そのころ、河合隼雄の本を結構読んでいて、性の力が弱まった50代ぐらいにならないとそのころの精神状態は描けないと書かれていた。児童文学の傑作はこれぐらいの年代の人に書かれたものが多いらしい。それで、フムフムと納得したのだった。
最近見た、アリス・ウー監督の青春映画「ハーフ・オブ・イット」も中年女性の作品だ。彼女はおもにドラマ畑で活躍した監督で、どうしてもと言って撮った作品らしい。なんでも、監督が高校時代に彼女ができた白人少年との友情が壊れてしまったのことを原案にした作品だ。
彼女はレズビアンだった。もちろん、一昔前の田舎の話なので、そんなに自覚はなかったらしいけど、その子との友情が得られなかったことが、彼女が田舎を出る大きな理由になったらしい。
映画で初恋の少女も主人公も少年も性の揺らぎに悩んでいる。そして、なりたい自分を探している。
「ヒカルの碁」で思い出したのは、どちらもジェンダーのゆらぎがある話だからだろう。主人公に寄り添う碁の天才saiは女性とも男性とも思える姿で描かれている。そして、恋人のような友人のような関係性を結んでいる。そして、本人の分身から本人に統合されていく。そこで、天才棋士であるヒカルがあらわれていく。周りとの影響で人がかたちづくことが描かれている。
思い出した映画の表題「ハーフ・オブ・イット」という言葉はプラトンのひとめぼれを説明した言葉らしい。人は自分の半分を見つけたとき、そういう恋におちるらしい。
それはおのれ自身だったり、なりたい自分だったりする。それが思春期におこりやすいよねっていう映画だと思う。其処が「ヒカルの碁」と一緒だ。
映画の男の子はいわゆるスクールカースト上位のスポーツ系だが、ぱっとしない少年だ。でも、居場所に違和感を感じる賢さがある少年だった。彼は、学校一のかしこくて美人の少女を得たいと思う。
少年は主人公に少女への恋文を金銭で依頼する。
というのは、みんな、貧しい彼女に金銭でレポートを書かして単位をごまかしていたからだ。
勉強なんて馬鹿らしい。だって、町の秩序で人生が決まるのだ。そんな中でみんなはインテリぶってる移民の彼女を辱めて、憂さ晴らしをしていた。
彼女はカトリックの牧師の娘でインテリの女性だ。表向きは、スポーツの花形で裕福で家柄のいい少年の彼女で高校卒城後の結婚をせまられている。
しかし、それは俗物の親や周りにしいられたものであって、内面はつらい日々を送っている。
この町は野蛮すぎる。白人貧困層のヒルビリーの町じゃないかって言う感想があったが、かつての町の若者への扱いへの怒りでかなり戯画化されているのもあると思う。でも、閉鎖的なところでは普遍的に起こることだと思う。
その中で繊細な少年は少女たちへのあこがれを秘めている。普通とは違う。でも、素敵だ。そして、彼女たちはつらそうにしてる。それは少年が悩んでいる秩序の中でしか生きられない悩みと同じだ。
だんだん、物語では、少年は彼女たちの教養を学んでいく。世界が開いていく。
そして、幼馴染の中国系の少女をずっと愛していたことに気づく。あこがれの少女は彼女に近づく、いいわけだった。彼はずっと彼女を家の窓から観察していた。
そして、彼と親しくする過程で少女たちは自分の性の形に気づいていく。主人公も彼女にあこがれていた。それは同じ性的な傾向をもっていたから。それはめったに得られないことだから。その中で彼女は性に目覚め、少年の愛にも気づいていく。
しかし、今の若い人にささげる物語なので、彼女は自分の恋心をみんなに告白し、みんなの欺瞞を正し、田舎を去ることになる。そして、彼との友情はずっと結ばれ、三人が救われ、これから新しい未来があるという形で物語が終わる。
この映画が中年以上の人にも人気があるのは青春時代のまだ性が未分化な時代の揺らぎを浄化したいという思いなんだろうと思う。
思春期を大人の側から描くとき、その混乱を解きほぐし、変化を肯定的に描いてほしいと思う。そうすることで私たちも変化を受け入れることができると思うのだ。そして、若い人を励ましたいと思うのだ。