oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

モラルと表現「漂流怪人・きだみのる」

 

 

  直木賞をとった三好京三の「子育てごっこ」という本をご存知だろうか。子供ができない分校の先生夫婦が、放浪の芸術家の晩年の子を引き取って育てる話だ。未就学児で躾のなっていないその子を更正させて、ついには養女にする。映画にもなって、美談として、消費された。子供心になんかなって思った。案の定、のちに、その娘がぐれて売春したり、養い親の虐待を告発したりした。

 あの当時は、娘の非行をえがいた「積み木崩し」が、テレビ、映画にもなったりした。まだ、メディアのそら恐ろしさに鈍感な時代の、いやあな話のひとつだ。このモデルになった老人がいた。娘が引き取られる直前、その人、きだみのる嵐山光三郎が、「ニッポン気違い列島」という本をつくるための取材で、全国を回ったらしい。そのころを回想し、その存在の意味を示したのが、この「漂流怪人・きだみのる」だ。

 読んでみて、驚いたのは、戦前、「ファーブル昆虫記」全巻をはじめて翻訳したひとであること。旅したころ、業績をたたえて、全集も出ていたことだ。そして、戦後の村落の後進性を描いた「気違い部落周遊紀行」は映画になり、怪優、伊藤雄之助の主演で大受けした。だから、実は、お金もかなり持っていた。

 彼は、パリで岡本太郎の後輩として哲学を学んだ、大インテリで、とてつもなく、愛嬌のある人だったらしい。しかし、何人もの女の人と関係し、五人もの子供を作り捨て、放浪先でゴミ屋敷をつくり、お金に汚く、人を裏切るロクでもない人物でもあった。

 若き編集者だった嵐山光三郎は、そんな彼と、晩年の不倫の子で、母にうとまれ、行き場がない10歳のミミと呼ばれた娘と旅をする。戦前の「モロッコ紀行」という放浪の記録に惹かれて、いっしょに本を作りたかったからだ。そのなかで、嵐山は、彼と旅をし、彼の作る稀なるご馳走を食べ、教養にふれる。しかし、彼は、多くの尊敬してくれる人が作ってくれた居場所を、ゴミだらけにして、暴言を吐き、だんだんとさけられるようになる姿をみる。

 連れられた娘は、難しい本を読みこなし、海外体験やぜいたくな食事の味を知るが、行儀はなっていない。そして、娘の前で猥談をし、女の人をからかうのを見ているから、子供なのに媚びがある。同行していた、元から尊敬していたカメラマンも、旅の最後には、彼に失望する。嵐山の視線もひややかになっていく。

 そして、ついに、行き場を見つけられない彼は、地方で尊敬されていた教師夫妻に娘を託す羽目になったようだ。教師が、作家をめざしていて、彼をモデルにした小説を書いたことで、トンデモと知ったが、取戻すことはできなく、亡くなる。そのあと、教師、三好京三は、彼らをモデルに直木賞をとる。

 この本のなかでは、その後の娘の道行も描かれる。ロンドン大を出て、イギリス人と結婚し、銀行員になったらしい。その更生には、かの瀬戸内寂聴が、だいぶ、協力した。そして、まっとうな社会への訓練をしてくれた、三好京三とも和解した。三好が現れたのは、才能があるからといって、どう生きたらいいか、本質的なモラルとはと、彼らに親子に突きつけられた、社会の刃のような気がする。

 その後、嵐山光三郎は、会社をやめ、彼が戦前発表した、「モロッコ紀行」の地を家族と放浪した。そして、作家への道に進んだ。彼はこれらの経験で、西行芭蕉もきだと同じ破綻者だと語っている。人間社会を異界をしていきるということは、とんでもないことなんだろう。そのことを心にとめて、嵐山光三郎は、今年も、芭蕉の本を出したらしい。

 三好があの本を書いたのは、晩年のあらかさまな著書の題名にあるように、「なにがなんでも作家になりたい」だったからだと思う。その罪悪感が、書かれているような、娘の許しがたい卑怯なかたちの告発も許そうとした。彼の虐待はなかったとは思えない。川の字に寝るとか、もう、大人の事情を知っている娘には、耐えがたかっただろう。なにより、ろくでもない両親に捨てられたこと、三好に小説のために利用されたことの、傷を含めてなんだろうなと思う。

 それにしても、開高健にも影響をあたえた、破綻者、きだみのる文学史上の意味は、これからも、ひそやかに伝えらていくのだろうな。なんとも、業のふかい人々のはなしだった。なんとなく、モラルってなんなんだろう。社会と反社会とのせめぎ合いを感じたから、私もこの話が心のすみっこに引っかかってたのかな。

漂流怪人・きだみのる

漂流怪人・きだみのる

 

 

私と恋愛

 村上春樹の「TVピープル」を読んで、私と恋愛についてつらつら考えた。私はそういえば、恋愛自体を拒絶していた。恋愛したら、ストーカーになるんじゃないかと。恋愛の結果が結婚でないと我慢できない自分がいたからだ。それぐらい、若い時は前時代のモラルにしばられていた。まわりは恋愛を楽しんでいたのにだ、そんな私はもてない劣等感をかんじた。読んでいて恋愛に限らず、するべきときにしない、するべきことを我慢する、それがどんなに自分をそこねたか、それが彼の小説をよむ理由なんだなと感じた。そういったひとは多いのだ。

 

 この短編集は、「ノルウェイの森」と「ねじまき鳥クロニクル」をつなぐものだと思った。作品としては表題の「TVピープル」と「眠り」が素晴らしい。でも、はっきりと彼が「ノルウェイの森」を書いたかわかるのは、不器用な「われらの時代のフォークロアー高度資本主義前史」だ。それは若い男女の恋愛のみちゆきを描いたもので、性的に結ばれることを拒ばんだことの悲劇だ。そういえば、彼ぐらいの世代の大学なんか行ってたひとで、こういうひとは、結構多かっただろうなと思う。今は、お互いに独身で、好意がある男女は半年もしたら、いたしてしまうというのが自然だろうなと思う。まあ、大概のひとはそうなるだろう。それを寸止めにするのは、前の時代のモラルだ。だが、それは若年の妊娠をさけるためとか、女性が18ぐらいまでに結婚をしていた時代のものだ。

 前時代が何千年かかってつちかった、矛盾がある経験則をのりこえること、それには、彼らは子供として、もっと知識や経験をつむことが必要だ、動物的な繁殖なんぞとんでもないという時代が、はじまったころのはなしだ。だいたい、作中の女性は、有力者の奥さんでしかない。子供もいない。そこにあるのは退廃だけだ。不自然なことをして、大学に行っても、充足は得られていない。今でも、日本では、社会で成功してる女性は独身であることを強いられる。「ノルウェイの森」は、そんなどこの近代社会でも起こった、社会の勝ち組になるには、動物的な充足から目をそらせというメッセージとの戦いの痛みだったんだろうなと思う。そのなかで動物的充足をもとめたのが学生運動で、それは勝ちたい人に利用されただけだったんじゃないか。村上春樹はそれらが見えて、そこを踏み外したひとなんじゃろと思う。で、ジャズバーなんかを経営していた。

 そんな彼が近代戦争という社会のシステムと個人の問題に行き着いていったのはわかる。そうなのだ、ソルジャー、戦士というものは、繁殖を拒絶しているものですね。人間の方がアリのシステムを利用している。

 

 そういえば、見合い結婚して、5年間ほど、子供ができなかったときに再会した彼らは、ひどくかっこ悪かった。あるひとが妹がこどもに預けてスキーに行ったのが憎いっていっていて、白けたのを覚えてる。私は結婚を維持するために、男女のことにキリキリと向き合っていたからだ。その充足感があった。

 

 今になったら、彼女の優越感、そして、恋愛の喜びのはての子育てのむなしさはわかる。しかし、それはよき結婚の新しい手段でしかなかったのだな。まあ、大概、それでいいのだと思う。でも、どこかで人間は肉体に裏切られる。今、でき婚が多いのも、不倫が多いのも、恋愛と結婚がいびつな形だからだと思う。でき婚は恋愛を結婚に結びつけようとする無理さを感じるひとが多い。心が離れているのに、こどもをダシにしているのだ。不倫はこどもを産むべきときに結婚できないからだ。それは、大きく言えば、システムの恩恵をうけるための犠牲なんだろうなっと思う。なんか、こう書くと嫌なモラリストみたいだなあ。ようはいらん傷はいらないということです。たぶん結婚なんかは、いたしたいとか、もう少し大きいお家に住みたいとか、理由が単純だったほうが健康ですよってぐらいでいいと思う。

 「ノルウェイの森」の直子側から書かれている、「眠り」は傑作です。主人公は平凡な生活を送っているが、魂は死んでいた。モチーフは「アンナ・カレーニナ」なので、愛読者としてはとても嬉しかった。思えば、肉体的に強者だけど、死すべき立場の戦士が、それをあやつる官僚の妻を奪う話ですね。しかし、新しい関係のなかで子供はできない。生々しいぞ。ロシアの小説は、近代社会と個人の問題に迫った近代文学のキモだと思っている。まあ、ドストエスキーを読んでないシロウトがいうことではないけど。人と社会のことは、たっぷりとした自然があるロシアでこそ、考えられたのだと思う。

 

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TVピープル (文春文庫)

TVピープル (文春文庫)

 

 

 

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みみずくは黄昏に飛びたつ 村上春樹インタビューを読む

私は小説のバックグラウンドものはほとんど読まない。でも、「騎士団長殺し」のみみずくが可愛いかったので、この本の装丁にひかれてしまった、読んでみて、主人公と、出てくる謎の人物、免色さんの年齢設定が重要なことは読み取れていたなあとうれしかったです。村上春樹は三十後半の主人公を常に描いているのですね。さうですね。この時期は亡くなったり、ずいぶんと人柄が変わる人が多いなあと思っています。人間の生物的な寿命は、本来はこの頃だからからかな。村上さんは人の完成はこのころで定まると確信があるようです、そんなことが、このインタビューから感じられました。そのながれで、村上文学の主人公たちのよくある、あんな優雅な三十代があるかとの疑問に、川上未映子さんがズバっと切り込むのが心地いい。それにどう答えたか、その辺り、面白いです。また、女性が常に性を通して主人公を導くのは、ファミニズム的にどうかにも迫っています。川上未映子さんの小説読んだことないけど、読んでみたい。そう感じさせる鋭さです。プロどうしの話なので、ただの読者には、読み取れないことの多いこともありましょう。まあ、彼女が熱心な読者なのを割引いても、本を読んでもらう戦略だとしても、フェアないい本だと思います。こども時代の話など、洞窟の語り部のように、心がけて小説を書いている彼が、特異な存在である謎が、少しわかったような気がしました。 この本は、なぜ、彼の本が世界で読まれるかを、心の地下一階、二階にたとえて語り合っており、刺激的です。 また、やはり、「ねじまき鳥クロニクル」が、彼が代表作だと自負する存在であること、オウム事件のインタビュー、「アンダーグラウンド」と」「約束された場所で」とを読まないと、小説の謎が解けないことは納得でした。日本人は、あんまし三作を読まないようですね。切実すぎるから。今も続いているなにかしらと関係あるからかなあ。クロニクルは客観的な目でシステムとたまごの問題に迫っていて、色々悩んでた頃、ずいぶんと、この作品に、私は救われたと思っています。今回の新作は、同じように、村上春樹の先の戦争から続く、人々の沈黙への問いかけのひとつだと思ってます。エンターテイメントして面白く、そして、すごく読みやすい文章でワクワクしました。 重要な小説で読んでないものも多く、早速、短編「眠り」を探してみて、拾い読みしました。主人公が読んでるアンナカレーニナの現代版で、改めて、トルストイ読んだら、今どう感じるだろうと思いました。長編で大変なんですけどね。小説って、改めて、手間かかるけど、読みたいと思いました。

村上春樹「騎士団長殺し」読みました

 

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いつもは文庫になってから、読んだりしてたんですが、今回ははやばやと第一部をよんで、急いで第二部を手にいれて読みました。エンターテイメント小説として抜群に面白い。まあ、村上春樹エッセイいわく、まんまとaddictionにかけられたのかもしれませぬ。ちなみにaddictionって、宇多田ヒカルの歌で覚えた言葉です。

 はまったのは他の訳があって、舞台が何度も行ったごく近くの場所なのですね。桜で有名な場所ですが、シーズンオフにも結構行っています。一番の思い出は、子供が小さい頃、家族で出かけて、きいちごをとったことです。谷間がせまく気候がコロコロ変わるのか、不思議なことがおこるので、心惹かれるのです。ちょっとしたパワースポットだと思います。あの場所が選ばれたのはこの話のたいせつな要素、谷間が狭いということなのだろうと思いますが。

 登場人物のメンシキという男がほぼ私と同じ年だということも、実は重要なことでした。かのオウム真理教の幹部って、私とほぼ、同世代でなのです。私も彼らと少し接点があったりします。東京、大阪では、以外とそういう人多いのではないだろうか。知り合いの知り合いとかね。もちろん、オウムのルポ「アンダーグラウンド」を書いたひとだから、気にしてしまうのです。私たちの世代というのは、かの学生運動が挫折した頃に生まれたこととか、科学がいろんなことを解決したかに見えた頃だと思っています。ちょうど私が生まれたころに、出生時の死亡率が10人にひとりにぐっと減ったとか読んだことがあります。確かに、都会では、ほぼそのことは見えなくなっていたけど、東北とか北海道の奥とかで、子供たちが死んでいたのです。意外だったのは、ハンセン氏病の特効薬がでたのも、この頃なのです。

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 若いころも、私が学校を卒業したころは、ちょっとした就職難でした。次の年ぐらいからバブルで、大企業でイケイケとなったのです。そういう意味では境目の年でした。同じ年でうまく就職した人はその恩恵をうけ、派手な生活をしていましたが、出来なかった人たちは辛かったなあ。もちろん、好景気の恩恵はそれなりに誰にもあったようです。たった一年ぐらいの差ですよ。そういう意味では絶妙な年齢設定なのです。わかっていて、村上春樹は設定しているのかな。科学は万能だと無邪気に信じられたころに生まれ、その人にもたらす、善と悪に気づかされた人生のたびゆきだったと思っています。

 その後、つらいひとを見下げ見捨てることが、本音がたいせつと、ひそやかに始まっていたことを、バブル崩壊のころに気づきました。真面目を笑い、モラルを笑うことです。そんな個人的なこれまでの思い、そういった気持ちを渦巻かせる小説でした。

 読み込んで感じたのは、思いを引き継ぐこと、そして表現することのたいせつさです。このなかで、死に行く老人と、ひきつぐだろう子供が救われます。こどもってなんだろうね。すごく気になります。舞台となった場所は、すごく女性を感じさせる場所なのです。そして、手付かずのむかしの痕跡がある地域なのです。

 小説のなかで、なにかしらの秩序がこわされたこと、そのために主人公がなさなければならない不思議とはなにか。そして、騎士団長殺しとはなにか、読んでみてほしいです。もちろん、おなじみの村上春樹の小説にでてくる、いつものアイテムも散りばめられています。

 もうひとつ感じたのは、表現することについて、励まされたことです。すべてのひとに言葉にできない体験、思いがいっぱい溢れてると思います。私自身もブログなんか書いてると、自分は聞いてほしい、知ってほしいというスケベ心の塊なんじゃないかと、戸惑ってしまうことがあります。そんなことはない、まず、自分を救いたいというきもちで表現してるんだ。それでいいのだと思いました。あふれてしまう何かを表現することは、まずは、よきことかなって感じられて、ほっとさせられる小説でもありました。

 

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騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

雨宮まみ「東京を生きる」ことばにできないこと

 雨宮まみの「東京を生きる」を読んだ。なんとなく呼ばれて、デビュー作の「女子をこじらせて」もよんだが、そちらはいろんな要素を詰め込んで読みずらかった。その混沌をそのままさし出したのが、こちらの本だ。たった5年ぐらいかな。こんなに簡潔な文章に進化してるとは、ほんとに生き急いだのだな。故郷をはなれた理由のひとつに、博多の繁華街の東京の最上の上澄みがある世界とほんの10分ほどしかはなれない高校生しか乗っていない電車路線をあげていた。私も地方の県庁所在地に降り立つと、その虚構性は強く感じる。しかし、目を背けて消費を楽しむだけなら、気にならないで生きていけるひとも多いのにと感じた。確かに田舎の優等生はつらい。勉強ができるだけに美貌や振る舞いなんかを値踏みされた上に、家族のなかで別の階級にならされるのだ。東京で何事かをなすために特別にあつかわれたひと、しかし、東京でひとりぼっちの女ができることなんてしれている。東京で生まれただけであらかさまな下駄をはかせられているのである。学生時代、地方の優等生の男の子たちと遊んだことがあるが、下宿していてる彼らが、大阪のデパートのビアホールにいくのさえ、頑張らなければならないと知った。それなのに大企業に就職して、バブルの頃とんちんかんな背伸びを覚えていくのである。都会にも、もちろん見えない壁はある。大学から住んでいる町の駅に降りると、子供時代の知り合いたちはチリチリのパーマをかけて所帯染みていく。なんで部活の先輩の結婚して子供のいるひとたちはあんなに若々しいのだろうと。そんな女の子たちを彼らは目指す。そこにこまかな階級というものがあるのがわかる。私は彼らのどちらにも媚びることも同化することもできなかった。卒業してから、貧しい人たちと一緒だったため、親戚に差別されて沈んでいった両親と、ものが投げやりに置かれた実家でひそんでいた。東京に行くなんて思いもしなかった。誰かに一生養ってもらうしかないと思っていた。

 そんな私にとって雨宮まみの東京での冒険はてんで縁のないもんである。ただ、下町の同級生の優秀な男でさえ、40代で子をなすような東京で、女として名をあげるなんてとんでもないドンキホーテの努力であることはわかる。しかし、彼女の生き方は、彼女の本は、私の心に響く美しさがある。本の真ん中で藤圭子のうたう「マイウェイ」についての言及がある。藤圭子はわたしとっても、気になる人だ。デビューのときの「圭子の夢は夜ひらく」は名曲だと思うけれど、それからの曲はなんだかそぐわない気がして痛々しかった。そのうち前川清と訳のわからない結婚をして影が薄くなった。その後見たのは、米軍ハウスかなんかに親子三人で住んで、良質な三枚の食器を示してシンプルで素敵な生活をしていた彼女だ。かっこいいなっと思った。たまにタモリがMCをしていた「今夜は最高!」で楽しそうにポップスを歌っている姿をみた。話はそれるが、あの番組好きだったなあ。音楽を楽しむってこういう感じだと思った。そんななか、嬉しそうに娘自慢をしている姿をみた。いつも、本気で幸せそうだった。その裏で、正反対の極端な浪費とかしていたのだなあ。村上春樹のエッセイで、彼女に町のレコードやさんかなんかであったエピソードを読んだのはそのころかな、あまりにふつうで素敵な彼女があんな歌を歌わされて気の毒だったという話だったような気がする。ひどく同感した、幸せであって欲しいとひどく思った。そのうち宇多田ヒカルがデビューして、あまりの天才ぶりに彼女は歌を歌わなくなってしまった。なんだか寂しくてSNSで彼女の影をさがした。私は藤圭子が旅芸人の娘というもっとも古い価値観を持つ階級の出身であることを知った。そして、中学生時代の勉強ができる美少女である彼女への憧れに満ちた、同級生のホームページを読んだりした。あんな死に方をしたので閉鎖されてしまったけれど、その彼女も彼女だったんだろうと思う。雨宮まみは、すばらしい才能に振り回され、別の人になりたいと願ってもなれなかった彼女と同じように、平凡な私もあなたも自分以外にはなれないとその章を閉じる。改めて問う、私の前に一瞬あらわれた、彼女こそはなにものか、そんなことをこの本を見て思った。

 

 

東京を生きる

東京を生きる

 

 

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 最近、村上春樹川端康成を気持ち悪いって思っていることを知った。藤圭子と同じ目線でみていたのだろうと思う。私は実は嫌いではないのだ。どちらか言えば古いものと共存するタイプなんだろうな。

 

生身の人間がいる。映画「沈黙」

映画チラシ 沈黙 サイレンス アンドリュー・ガーフィールド

 昨日、映画「沈黙」を見てきた。若いとき、感銘をうけた小説だ。何年か前、修道士を志したマーティン・スコセッシが映画化すると聞き、面白いなあと思ってずっと待っていた。ちなみにスコセッシの映画は「タクシードライバー」と「ギャング・オブ・ニューヨーク」しか見ていない。ファンとはいえないなあ。しかし、歴史への興味が似てるんだろう。後者は、今は絶版になってる原作をがっつり読み込みました。後から来た移民が居場所を求めて、手段をえらばず闘い取っていくはなしだ。そのなかで描かれた、ニューヨークの貧民街の最下層のアイルランド系と黒人が混血して、白い人が白人として、黒い人が黒人として生きていった歴史は驚きだった。その本しか読んでないので異説もあるだろうけど、アメリカの人種間の問題の根深さなんだろうと思う。アメリカの黒人はアメリカ人なんだ。二度目に映画をみたとき、アイルランド系の敵役と娼婦を演じる黒人の目鼻立ちの白い女優さんたちの絡みがカラバッジョみたいだと思った。善悪を超えた人間の業の輝きというものだろうか、美しかった。映像で歴史を語るってこういうことだなと思った。ちなみにヒロインにキャメロン・ディアスが出ているけど、名前が示すようにヒスパニック系の白いひとなのだ。そういった人々の手段を選ばない戦い、生き残ることの切なさ、無残さが「沈黙」に通づるものかなと思う。生身の人間の尊厳があるから、そんなはなしも輝くのだ。

 「沈黙」は母が信じたキリスト教がどうにも合わないと感じた遠藤が、その布教の問題点をさぐった小説だ。その問題をスコセッシは、映像で物語る。なぜ、かつてキリスト教が定着しなかったか。そこには宣教師たちの無意識にある教化するというエリート意識の思い上がりがある。だから、まず、彼らと同じような支配層であったインテリ層に布教された。しかし、日本には強固なもともとの宗教観がある。そんな内面を見下されたことに、嫌悪感を抱いた彼らにしたたかに逆襲された。それは実はすでにヨーロッパで、アジアで、南米で問題になっていたことだった。なぜ少年たちが遣欧使節に選ばれたか。それは純粋無垢な子供扱いされた蛮族の象徴だったからだと思う。蛮族だからなにかを奪ってもいい。映画で浅野忠信演じる通詞が、捕まえた主人公の宣教師を「傲慢なやろうだ」と吐き捨てるのは印象的だ。しかし、病や貧しさから救いを求めて、心を差し出した人々は既成の社会への無言の批判者だ。それも彼らには腹たっただろうな。

 そんな善悪とか正しさとかでは割り切れない人間の生の感情をえがいた原作をスコセッシは映像のちからで美しく描いてくれた。拷問のシーンでさえ美しい。人間の命の輝きだ。塚本晋也演じるモキチの姿の神々しさよ。霧にむせぶ情緒的な映像。圧倒的な自然、厳密な時代考証、そして的確な演技指導。日本の映画界でも居場所が定まらなくなったナイーブさを持つ、窪塚洋介のキチジローはいい。キチジローは相変わらず強さや優秀さに優劣をつけて信者に求めたキリスト教に苦しんだ遠藤周作の影の自画像だと思う。卑怯でしたたかでなさけなく、そして依存的な。善悪とか裁くことよりも、あったこと、為したこと、そして内面に抱いているものが大切なんかもしれんなと思わせる映画だと感じた。

 

 追記したいことがあります。

 若いとき、キリスト教に憧れの先輩から誘われ、断ったら記憶が落ちるほどの暴言を吐かれたことがあります。しかし、今考えると彼女よりよほど辛い人生を過ごしてたと思う。彼女の実際は知らないですけど。でも確かに私は、苦労に甘えたいやなやつだったです。それを踏まえて生き続けるって悪くないです。それゆえ、「沈黙」は大切な本です。

chinmoku.jp

 

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いっしょ過ごした「少年の名はジルベール」

 私が中学時代、大好きだった萩尾望都先生が竹宮惠子先生いっしょに共同生活をしていたのを知ったのは、ずっと後になってからだ。一年ぐらい前から 、漫画家をめざして上京し、「風と木の詩」を書かれたいきさつを書いたこの本を読めずにいた。そして、そのころのことを色々と思い出してた。中学のとき、私が漫画を好きなのを聞きつけてともだちになってくれたひとがいた。彼女が大好きだったのが竹宮先生だった。ふたりで「サンルームにて」を読んで、いつ、このジルベールという少年が主人公の漫画が描かれるのか、興奮して語り合ったものだ。「サンルーム」初めて知った言葉だ。ガラス張りの離れ家のことですね。おフランスのすてきなこと風俗が描かれ、背徳的でわくわくした。学校のなかで他に読んでいたひとはいたのかな。大概は、マーガレットとか、読んでいたのかな。友達の少ない私たちは気がつかなかった。この本を読むと、ファンレターを書いた人も少なくなかったらしい。いっしょに言葉を持って、先生たちを応援していたひとがたくさんいたのだ。おなじ中学生でも、ずいぶん違う。私たちはいろんな意味で差別される境遇だったので、自己肯定感が低かった。やさしくされることを期待して、手紙を書くことを思いつきもしなかった。しかし、そういった私たちに強い励ましをくれる人たちであったのだ。

 この本では、徳島から上京した竹宮先生が増山法恵さんという友だちと出会い、彼女を通して、すごい才能の持ち主である萩尾先生と共同生活をすることになり、そして、ふたりで学び合う二年ほどの際月が描かれる。そうか、私が、初めて出会った「空がすき」のころだったんだとと知った。「空がすき」は楽しかった。当たり前だ。「シュルブールの傘」を始め、フレンチミュージカルを徹底的に研究して書かれてたのだ。その後、「アラベスク」の山岸涼子先生を加えて、シベリア鉄道を経ての長期のヨーロッパ取材旅行に行ったこと。そして、萩尾先生へのしっとに苛まれ、決別する日々が描かれている。

 あのころ、ふたりは、はたち過ぎたくらいだったのか。しかし、あの年代のひとは母親になるひとが、ほとんどだったからだろうか、覚悟が違う。漫画で革命を起こそうと理想をかかげていたのだな。そのための猛勉強はすごいな。映画の脚本のしくみがわかり、教養がある増山さんが、すごいと驚いたようだが、こんなひと、今の日本でもそうはいない。おふたりも元々、相当な知識と教養がある。女性が絵で食べていくということが成立しているのは、日本の漫画ぐらいではないだろうか。そのころ読者としてすごせたのに身震いする。

 意外だったのは、そのころもアンケートがあって、竹宮先生が一度も一位になったことがなかったことだ。少女コミックのなかで輝いていて、みんな、ふたりが読みたくて、読んでいたのではないのかな。もちろん、「ロリィの青春」の上原きみ子先生の作品も好きだったが、いささか、子供っぽかった。こう書いていると、アンケートにも気付かず、旅行記を流し読みしていた、私にびっくりする。相当、混乱していたのだな。確か、一ヶ月ほど学校を休んだこともあった。連載された、「ファラオの墓」はしっかり覚えているし、萩尾望都先生が影響を受けた手塚治先生の漫画を求めて、最後の古本やに出入りして、白土三平忍者武芸帳も読んでいたのは覚えているが。確か、萩尾望都先生に、とんでもないファンレターを送ったことがあった。投函したあと、届かないことを祈った。

 しかし、そんな、私にも、おふたりのメッセージは届いたし、友だちを得ることができた。内心は、その境遇をバカにしてなかなか打ち解けない、ひねくれ者の私のよくぞ友だちになってくれたと思う。ご両親が信じる宗教系の進学高に入って縁が薄くなった彼女に、最後にあったのは、人混みの中の十三駅のホームの向かい側だった。障害のあるひとたちを引き連れてのジャージ姿だった。にごりのない笑顔を向けてくれる彼女に対して、女子大生だった私はうつむいていたのが、情けなく辛い思い出だ。なぜか、名前も忘れてしまった彼女のことが忘れられない。私をいじめてた、その後、16で子供を産んだ少女のなまえはしっかりと覚えているのに。

 

 

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール