oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

忘れたことの忘れられないこと 波津彬子「玉藻前」

 波津彬子、漫画文庫で「玉藻前」か、ふむふむ面白そう、なんかすごく読みたい、なぜだろう。そこで、はたっと思い浮かんだんですね。それは子供のとき、何度もテレビでみたアニメで、 ヒロインが「玉藻前」というのがあったのですね。悪に染まったヒロインが改心せず、主人公の片思いで終わるという話でした。悪を為す人はある地点で引き返せない。心が冷めたら、ひとはもどってこない。そして、報われない愛に殉じる主人公のけなげさ、つらい話でした。SNSで調べてみると、「九尾の狐と飛丸」という題で、どうやら原作がおなじ岡本綺堂らしい。昔だったら、なんだかムズムズするということでおわり、わからなかったかもしれませんね。

 もともと、「玉藻前」の話は 保元、平治の乱が、鳥羽天皇の女性関係が原因のひとつだったのと、そのころ発見された那須温泉の毒である硫化水素のでる泉源にある、大きな石「殺生石」との話を結びつけた説話だったようなんですね。インドの悪女や殷の妲己の生まれ変わりである玉藻前が、鳥羽天皇をたぶらかすはなしで、僧侶が作った話っぽいですね。

 漫画の解説によると、岡本綺堂は、「玉藻前」をフランスの古典的な吸血鬼小説、「クラリモント」と結びつけたらしい。修道士とその師匠と吸血鬼のはなしだそうです。どうやら、性的な堕落と戦うはなしのようです。なんというかミソジニーっぽいです。岡本綺堂はその二つのはなしを大胆にも若い男女の悲恋ものに構成しています。だから、鳥羽天皇に会う前にはなしは終わってしまう。若い男女の死とエロスのはなしですね。

 しかし、この話をアニメ化しようとよく思ったなあ。子供向きではない。大映系のアニメ会社若尾文子の映画をとっていた増村保造が関係してたようです。だからかな、悪女に翻弄される男の純情のはなしなのは。ちょっとナルシステックだった。

 ところで、ほぼ忠実に再現された漫画では、玉藻前は悪に支配された女でありながら、主人公に心を寄せ、誘惑しようとします。悪女でありながら、純情なのですね。アニメと原作どちらが正しいというわけではない。どちらもありで面白いです。

師匠がねちこく説得する、それに応じて、主人公はヒロインを追い詰める。同性愛的な感情もえがいていて、複雑です。女性に対する恐怖に対しての、男社会の誘惑といったところでしょうか。これは、アニメでは、さすがに省略されていて、師匠は影が薄いです。純情な乙女のなかにあった悪のこころ、それが何かしらの邪悪なものに操られてることになっていても、それは彼女の意思でしょう。それでも、主人公は彼女に殉じます。

 波津彬子さんの「玉藻前」はそんな救い難きと戦う愛についての物語を、流麗な絵とたくみな構成で見せてくれます。堪能しました。そして、悪とはなにか、欲望とは、救いとは、一筋縄ではいかない作家、岡本綺堂のせかいに導いてくれます。

 

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

 

 アニメについてはこちらのサイトのコラムで知りました。元々はやはり、実写の企画で、スタッフは、横溝正史ドラマ「悪魔が来りて笛をふく」を作ったひとやガンダムに関係したひと、アニメ「どろろ」なんかのひとだったようです。

eiganokuni.com

 

善意こそがひとをそこなう「みんな彗星をみていた」

  遠藤周作の「沈黙」は私の好きな小説のひとつだけれど、いまいち背景がわからなかった。そういった悶々に答えてくれたのが、星野博美さんのノンフィクション「みんな彗星を見ていた」だ。このなかで星野さんがカトリックの世界への宣教は最古のグローバル企業で、マグドナルドみたいなものらしいと書いている。読んでて、彼女のインタビューにもあるが、どうやら、今、世界は、そのころの罪悪の清算をしているということにしみじみ共感した。そこにある、善をなそうとすることに、ひとは追い詰められるのだ。

 日本布教の頃、ヨーロッパではカトリックが、科学の発展や新しい新教、そして新大陸の富による腐敗で追い詰められていた。そこで、折しも始まった大航海時代、新しい土地、東洋への布教が決心されたらしい。そして、選りすぐりの優秀な人たち、家柄もいい、街の誇りのような若者が、宣教師として、各地に送られた。海を乗り越え、苦難を制した、筋金入りの人たちだ。そこへ既成の宗教に飽き足らない、心病んだ戦国時代の日本の人々が群がったようだ。最初にはいったイエズス会では、日本の高僧の行いを参考に、潔癖な日本人に合わせたマニュアルまであったらしい。

 そんな、深く日本人の心を取り込む様子を恐怖して始まった、キリシタンの弾圧は、元々、過激な浄土真宗からの転向が多かったりの深く傷ついた人々を追い詰め、そして、その人たちに共感し、居残った宣教師たちに、残酷な殉教を強いることになった。そして、信者たちはいつしか、殉教した人々の遺体につよく執着し、死を望むようになり、いよいよ邪教として扱われた。どうしてこんなことが起こったか、星野さんは、先祖の地にあった難破した南蛮船との交流の記憶にみちびかれ、中世の楽器リュートを学び、キリシタンの遺跡をめぐり、宣教師たちの文章をよみ、彼らの心を探っていく。

 彼女は、キリシタン迫害の現場、長崎の片隅に残された最初の殉教者を祀った教会の跡地、宣教師たちがほぼいなくなって、教義が土俗化して追い詰められた人々がこもった島原などをめぐっていく。それらは、今も世俗の権力に逆らっため、教会にも、日本にも無視されている。彼女は、権力者の感情的な行為、ローマの冷たさ、そんなことを見なかったことにして、長崎の教会遺産とはばかばかしいなあと、本のなかで疑問をもっている。それは、キリスト教系の学校で学んだとき感じた違和感でもあるらしい。

 そんな残酷な人間の現実をよそに、その当時でも、ヨーロッパでは、すぐさま、日本で起こった殉教が、熱狂的に絵画や演劇にされ、日本人の残酷さが強調されたらしい。ヨーロッパは日本を凝視していたのだ。そして、それは、ある意味、世俗化する前のカトリックが最後の輝きをもった、日本への布教の興奮だったのだ。そのなかで、「沈黙」で描かれる、上流階級出身者が多い、イエズス会のリーダーのひとりフェレイラがころんだのは、衝撃的なことだったらしいことも納得できる。

 しかし、それでも、大概の現実的な選択をしたなかで、一部の宣教師たちが、その殉教を引き受けたのか。それは、海を越えてまで、悩む人々に真摯に耳を傾けた、彼らへの尊敬と、そのひとたちを一途に信頼し、正しく生きようとする信徒たちへの宣教師の尊敬が起こしたことなのだ。結局は、ひとはひとを切実に必要としている。実に人間くさいことなのだ。たぶん、その後の植民地などで行われてた営みなのだろう。それが文化や秩序の破壊、そして搾取につながっとしても。愛というのは厄介なものだ。

 星野さんは最後、殉教者の故郷スペインを訪ねる。そこでは、バスクの首都とも言える大都市の教会が軽侮され、信者が集まらない。そこの信徒だった、びっくりするほど優しい男は忘れられていた。そして、最後に訪ねた小さな町の教会では、なり手が無く、コンゴ人の牧師が支えているありさまだ。そのなかでも、町のほこりである殉教者を忘れない人々がいる。彼はただ、日本のカトリックの歴史を報告しただけのひとだ。しかし、町のほこりだった青年だった。そして、彼が40万人もの日本人信者のために戦い、そして幾人もの同士ともに死んだことに初めて知り、彼らは涙する。そんな宗教とはなにか、日本人になにをカトリックがもたらしたか、人間とは何かを求める旅が記されている。

 

chinmoku.jp

 

 今のカトリックの現実

 

 

静かなでゆたかなほの暗さ 能町みね子

 私にとって、能町みね子タモリ周辺にいるちょっと不思議な人ぐらいの感じだった。オールナイトニッポンでラジオをやっているのは知っていたけど、夜更かしは苦手なので聞いたことがなかった。いいなっと思ったのはWEBのかたすみにあった「お家賃なんですけど」からだ。彼女が古ぼけた風呂なしのアパートに住んだ体験を小説としてまとめた本だ。しごとをやめたころに住んだ思い出の場所だった。性転換の途中、銭湯にかようのがだめで一度出たらしいが、大家の加寿子さんなるひとは、女性になったあとも、再び、こころよく間借りを許してくれたらしい。東京の都会の懐ぶかさを感じさせるはなしである。

お家賃ですけど (文春文庫)

 そんな、実は過酷な体験をまじえながら、アパートでの暮らしを淡々とえがいていく。とても詩的で、あきらめがたちこめる文章で、唸ってしまった。今、よみおわった、北国への想いを綴った「逃北」によると忘れ去られた詩人、尾形亀之助の文章に影響をうけているそうです。尾形は宮沢賢治の「オッペルと象」を載せた「月曜」という冊子をだしてたらしい。そういった詩を感じさせる文章は好みなのだ。他の旅行記でもそうだけど、私と行っているところが、けっこう重なっているのも、なんか嬉しくて読んでいる。知らない住宅地あるくのって好きなんだな。普通のカッコしてると、普通に道を聞かれるのが楽しい。じつは寄る辺ない気分を秘めてるひとって結構いて、そういうひとに、この人の文章は受けてるのであろう。そのあと、「オカマだけどOLやっています」を読んだ。そういえば、そのころ、オカマのひともふつうの会社に勤められるらしいとうっすらと聞いたことがあったなあ。世の中も進んだなあとか、じつは結構そういうひといるのかなって思った。その体験を、この本は、いかにして自分を肯定して、そして戦かったかを描いていて読み応えあります。なんというか、静かなで湿っとした文章で、好きであります。

 

 

 

もやっとした気持ち「アヘン王国潜入記」

久しぶりに遠出して、ここらで唯一チェーン展開していない本屋さんに寄った。だんだんとスペースが先細っていき、本の内容が多彩でなくなっていくのが寂しい。そんななか、高野秀行の「アヘン王国潜入記」が紹介されていた。 こういうくせのある本の紹介、すきだな。まだ、個人の好みが店に反映されているのかと、うれしくなった。個人のお店のおすすめは失敗もあるけど楽しい。1995年のアヘン生産地潜入の話など、、読んでみてどうかなと思ったけど、こころざしにかんじて、読んでみました。たぶん、最近、同じ著者の「謎のアジア納豆:そして帰ってきた<日本納豆>」が発刊されて話題になってたからだろう。食べ物ばなしはすきなので、私もラジオで著者のはなしを聞いて印象に残ったが、単行本高いもんなあ。

 日本と関係ないっというのは、発行当時もそうだったみたいで、英訳本でまず発刊され、世界の麻薬関係のひとから、講演の依頼がたくさんあったらしい。こういう広がり方あるのね。しかし、一気に読んでしまったのは、今も解決できない普遍的なもんだいを示してるからだと思う。私が言うのもおこがましいが、地方のオリジナルの文化が、お金のちからで壊されているはなしだからだと思う。実際、今、ミャンマーの中国に隣接するこの地方は、公用語が中国語になるような状態らしい。他の地方から文化が押し寄せてきて、搾取され、固有のアイデンティティーが破壊される、今、せかいのあっちこっち、もちろん、日本でも起こっていることだ。

 ところで、この黄金のトライアングルでアヘンが盛んに生産されるようになったのは、中国がアヘン戦争を経て、お金が流失するのを恐れてからだそうだ。それはじりじりと、この地方の中国化を 進めていっているようだ。そんなぎりぎりのとき、著者は伝統的な農村に潜入してその生活を体験する。かつての日本の農村とかわらない、勤勉でそぼくな人々がけしを栽培している。アヘン中毒になる人も日本のアル中人口ぐらいのものらしい。年配の人が多い。それは、今、日本の田舎で、年配のアル中の人が多いのと変わらんね。人生、体力がなくなると、できることが少なくなり、ついということだと思う。それは田舎に共通することだろう。著書のさいごで、今の急激な時代の変化のなか、自治政府軍がそそのかされて、覚せい剤の生産が始まっているというところで終わる。農業から工業へということなのだろうが、嫌なはなしだ。村の移転のはなしもあって、村人はどうなったのだろう。

 著者の青春をえがいた「ワセダ三畳青春記」でもそうだけれど、登場人物たちの行く末がすごく心配だ。彼の周りには、常に死のかげがある。この本でも結婚前の村人、そして、彼をかの地に潜入させてくれた自治政府軍の男が亡くなっている。そういったぎりぎりのひとびとと、共に生きることを、いっときでも受けいれるということが、高野秀行の資質の面白さかもしれない。いやあ、楽しく、刺激的な、知の冒険をさせていただきました。感謝です。

 

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

 

 

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

 

 

子供が持てる、ミッフィちゃんの絵本

今週のお題「プレゼントしたい本」

 

1才からのうさこちゃんの絵本セット 1 (全4冊)

1才からのうさこちゃんの絵本セット 1 (全4冊)

 

 

  実際に最近、親戚の赤ちゃんにプレゼントした本です。うちの子が子ども時代すごく重宝しました。なにかというとこどもが軽くもてるサイズであることと、とてもじょうぶな装丁なんですね。だから、車なんかにもちこんで読める。そして、何度も読めるシンプルな内容であること、そして、言葉が少ないので、親もらくであることです。実際、デック・ブルーナは、幼児教育の専門家になんども聞いてつくったそうで、行き届いています。大人からみるとものたりないかもしれません。このボックスは第1作の「ちいさなうさこちゃん」がはいっているし、いしいももこさん訳の「うさこちゃん」っていうのが私はすきです。ほんの短いあいだのお供かもしれませんが、それだからあげたかったです。

 ほかに児童書だとトトロのさんぽの歌詞で有名な中川李枝子の「ぐりとぐら」シリーズ、かこさとしの「だるまちゃんとてんぐちゃん」とかもよろこびました。古典的ですけどね。ちまちまといろんなものが書かれているのがいいのかな。今のまんが「よつばと」に通ずるせかいです。こちらはもう、複雑な感情が描かれています。

 

 

父たちと宮沢賢治と「春と修羅」

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 ここのところ、毎年、盛岡を旅している。去年、行きたかった花巻に行ってきた。父に買ってもらった本のなかに宮沢賢治の「風の又三郎」があったからだ。父が選んだと思い込んでいたが、私がねだったんだと、改めて思い出した。5年のときの担任は、今でいうカリスマ教師で、毎年、生徒に「雨ニモマケズ」を暗記させていた。それで、どんな話か読んでみたかった。美しい青を基調にした挿絵があり、ふかしげな物語に夢中になった。最初の「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きばせ」このせりふぐっときました。物語は二百十日で終わる。なぞに夢中になった。父や先生の世代は宮沢賢治がブームになったころのひとだ。特に映画「風の又三郎」にグッときたらしい。のちにさわりをちらっとみたが、今でも、ハーフだった大泉滉の美貌とちゃっちだけどアートな特撮で見れなくもない。のちに変なおじさんでバラエティで茶化されていた彼は子役スターだったんだと、なんだかなと思った。青年期、小津安二郎の「お早よう」にもちらっと出てた。

 それから図書館でたいていの童話を読みふけり、「春と修羅」も読んでみた。「小岩井農場」は気に入ったが、死にゆく妹をうたった「永訣の朝」は正直こわかった。のちに賢治と妹のことを下世話に評論した新書をチラ見して、怖いほど美しいきもちって落したくなるんだなあと思って、いやだった。

 担任の先生と何年か前お会いしたけれど、私より少し上の息子さんを車の事故で亡くされていた。尾崎豊ではないけれど、親子の相克があったのだろうか。先生はルソーの「エミール」を愛読されていた。話術のために落語を聴く会をするほど熱心な方で、救われた人も多く、教員になった教え子もいた。そんな父世代に影響を与えた宮沢賢治を、私世代で読んでたひとって結構いたんだと、ゴジラの「春と修羅」でわかった。岡本喜八が残した本だったろうか。

 花巻に行ってみて、宮沢賢治を知らなかったなと思った。まず、記念館でみた膨大で多彩な仕事量にびっくりした。体が弱かったんではなく、過労死だったのだと思った。ものすごく欲望の強いひとだ。あと、大富豪の息子だったんだなと気づいた。路線バスに乗ると、花巻にはほぼ廃墟の大きな商店街があり、田舎に凄まじい富の集積があったのが見て取れる。

 鉄道が鉄の街、釜石に行く中継地であるのも知らなかった。「銀河鉄道の夜」はあきらかに花巻の繁栄と鉄道の関係を背景にしていたのだな。そのなかで、文化的贅沢三昧をした男であったのだ。そして人当たりも良く、金持ちなかまのなかでのほほんと商売をしたりできなくもなかったと思う。しかし、圧倒的な自然や貧困から、自分自身から、目を背けられないひとでもあったのだな。色々と面白く、怖いひとである。

 なぜか、記念館では行きたかったサハリン旅行を主催していた。賢治のせかいの信奉者たちらしい企画だ。行こうかなと一瞬思った。宮沢賢治の背景は、いろんなものを岩手にもたらしている。小沢一郎なんかも、あるかもしれない。もっと知りたいような気もする。今年も秋田に行ったとき、盛岡、どこがいいと言われ、小岩井農場と「注文の多い料理店」を出販した光原社に夫を案内した。なんだろう、私たちが背負っている、近代ってもののあわいを考えされられるひとなんだよな。

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記念館にむかう階段。

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記念館からみた花巻

 

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そして、 今の東北本線のありさま、活気があった町は静かにまどろんでました。

 

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岡本喜八と同世代で日大映画科卒のひとで、宮沢賢治の信奉者です。 

「鬼才 五社英雄の生涯」大衆的って何だろう。

 

 

 私は五社英雄のファンでないので、いくつかしか見てないけど、そのなかで、「陽暉楼 」が一番好きだと思う。普段テレビであいまいな演技をしていた女優さんたちから、演技を絞りだした華麗な映画だ。特に浅野温子をテレビだけで知ってる人は、びっくりすると思う。この映画は、辛口な淀川長治さんがめずらしくほめていて共感した。最初の、池上季実子演じる芸者の桃若が、初めて敵役の彼女に会うシーンがすきなんだな。桃若が粋な着物に身を包んだ芸者衆をひきつれて、陽暉楼の広い廊下から大階段を上っていく。そこを彼女が呼び止める。映画の大画面にはえる映画的なシーンだ。それから、なんだか、大袈裟でゲスな映画になってと、芸者やの子で、モダンな贅沢を知り尽くした淀川さんは流してしまう。しかし、この映画は、そんな芸者の世界を背景にした映像と演技で情念をえがいた映画だ。多くの人にアピールするのは、そんな誰の底にもある情念を映像にしたからだと思う。普段、映画とかみないひとにもわかりやすい、大人の世の中をよく知ったひとが作る、エンターテイメントだ。

 五社英雄芸者置屋の出身だという話を聞いたことがあるが、この本によると、本人自称のまるっきりなうそだそうだ。淀川さんははったりを見抜いていたな。話はそれるが、彼は、幼いブルック・シールズを主演にした、ルイ・マルの「プリティベイビー」をほめていた。「私も商売できたよ」と本人がロリコンを肯定し、娼婦たちがほめそやす遊女屋こそ、リアルだと言っていた。渦中のひとたちは、カタギの世界と対立しない。ふあふわと夢をみながら滅んでいく。淀川好みの芸術作品だ。しかし、尖ったアートは、人を突き放すのだ。

 ほとんどのひとはそういった悲しい肯定感を、人ごとで痛ましいとみる。多くのひとが好奇心をもって、安心して見られるのは、ドラマテックな対立だ。女性の私からも女性のなかの男性性で生き抜く女性たちは共感できる。五社監督はヤクザや芸者といった人々の周辺に育ったひとのようなので、知っていて、それも踏まえているから、淀川さんも「陽暉楼 」は気に入ったのではないかな。どの映画も彼の人生を反映し、切実なエンターテイメントを志していたと感じた。

 この本は私が見ていない、黒澤映画の暴力性を意識した、初期のテレビの時代劇の革新的なこころみについても丁寧に書かれている。大好きな丹波さんのとぼけた姿もいい。映画好きなひとに評価が低いのは、晩年の欠点が浮き出た多作が原因であることもよくわかった。馬力のあるひとの欠点でもあるな。

 春日太一は、映画のはなしをお仕事話として語るのが新鮮だ。昔、NHKでやっていたアクターズ・スタジオの講師が、役者さんの仕事の話を聞く番組があった。ちょっと難しい人でも、仕事の話だと語れる人は多い。仕事のはなしはどう生き抜いたかの話なので、参考にもなる。どうして、日本のマスコミは、こういったスタンスがないんだろうと思っていた。

鬼才 五社英雄の生涯 (文春新書)

鬼才 五社英雄の生涯 (文春新書)

 

 

 

 

 

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