「鎌倉殿の13人」を見た後、色々と本を読んだり、調べたりしていると、出てくる人が相模川周辺の人が多い。
それで先日の第4回のわき役のおじいさん岡崎義実の銅像が伊勢原市内にあるのに驚いた。頼朝役の大泉洋にギュッとされてた人ですね。そんなものあるのか、行って見ました。
まず、お城である岡崎城である無量寺に行って見ました。車で行ったんですが、細い一本道で入れない。これは史跡めぐりで結構あって江戸時代以前の古い道は狭い、くねってる、そして文明によって寸断されています。人が生理で作った道なんで。
そこで裏に回ってご近所のファミリーマートで一服。お城がある丘を見上げます。
丘をめぐる道が見えてきます。歩いてみよう。看板が見てきます。
正確には岡崎四郎義実というのですね。
丘をずんずんと登っていきます。かとうさんちの牧場という場所があります。ちょうど無量寺の裏手です。今は養豚を営んでるようです。
でも思ったより険しくない。新興住宅地と雑木林に挟まれた細い道を行きます。
途中、天気が良かったのもあって、結構なお年寄りが散歩しています。道に迷っていたので声をかけます。お墓はどこですかっていいうと「あ、四郎さんの墓」って教えてくれました。そうか、四郎さん、地元では身近なんだ。
谷間の雑木林の下です。墓石を見ると確かに古い江戸時代前ではありますね。いくつかあるので家族のお墓でしょう。上に見晴らしのいい台地があるのですが、古いお墓は隠すようにある。お墓を直接写すのは抵抗があるので。
これを読むと今の天皇陛下が学習院大2年生のとき訪ねたとありますね。そうか、銅像の謎が解けた。この前後に吾妻鏡や源平盛衰記に出てくる彼の業績が地元にひろがったのか。わかりました。
お墓の上に上がります。信仰の山である富士山と大山が同時に見える。素晴らしい風景です。気持ちの良い場所です。
私有地であるのでちょっこと配慮は必要と思いますが。いいところです。
たぶん、昔は尾根沿いに行けたのでしょうが、私有地になっているので丘をいったん下ります。丘下をぐるっと行くとグネグネとのぼり道に行けます。ところどころに家畜小屋の跡が残っています。この辺りの伝統の牧畜の地だったんでしょうか。
坂が緩んでるので思ったより楽でした。しかし、家々の高い石垣が迫ってきて怖い。丘の上の無量寺です。
たくさんの墓地に囲まれているのもあるので、ちょっと怖いです。
案内によると、ここは鎌倉時代の館ではなく、戦国時代の城跡とのこと。岡崎氏が絶えた後、三浦氏の領地となり、最後の三浦氏の頭領であった三浦同寸と後北条氏との激戦地とのことです。
でも、ここもお墓詣りのお年寄りが来られていて地域に身近なところなのだな。儀式が生きている浄土宗だからでしょうか。
鎌倉時代の館は岡崎神社の跡らしいです。そこの公民館に銅像があるらしい。ここから見ると新興住宅地に囲まれた小高い丘です。行ってみよう。
岡崎四郎義実は横須賀市とかある三浦半島の豪族三浦氏の人で、三浦氏の母をもつ源義朝の長男である義平の叔父のひとりにあたります。義平が為義の次男である源義賢を殺し、父の頭領を確定させたことに功績があったのでしょう。義朝の口利きだろうと思いますが、遠く伊勢原の地に領地をもらったようです。89歳の長寿でしたが、家族に恵まれず、小田原の石橋山の戦いで跡取り、佐奈田与一をなくしています。彼は白馬に乗っていて目立ったためだとされています。
では館のあった岡崎神社に登ってみます。
ここも富士山が見えます。上がってみると
ここが岡崎四郎義実の鎌倉時代の館跡です。見晴らしがいいです。広々として清らかです。お天気が良かったからかな。ここにも参拝者がいました。
下は広々とした田んぼです。すぐそばに鈴川という細い川が流れています。水場も近い。この辺りは大根川や細かい川があって湿地だったんだなって感じました。なるほど、この土地に入植して治水、開拓した初めの人です。そういう事で親しまれていたのですね。ここは豊かになった土地だったのです。
もし、ここに行くのなら、小田急伊勢原駅からバスで行くことをお勧めします。駅から平塚に抜ける道で便数も結構あり、近いです。回転すしやさんなどがあるバス停が便利です。
どうやら、江戸時代から観光に来てた人もいたみたいで、道は狭いですが回りやすいです。平家物語、源平盛衰記に出てきてるようで、物語の力ってすごいですな。娯楽の少ない時代だったので行って見たい人が多かったようです。
次は佐奈田を名乗って岡崎義実の長男、与一の領地、平塚市真田の地に行ってみます。