oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

争いは家族から起こる「史伝 北条義時~武家政権を確立した権力者の実像~」

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 北条義時という人はえらく歴史的に嫌われたらしい。

 それは、彼が北条家に権力を集中するために頼朝の死後に源氏の係累や有力な御家人たちを一族もろとも粛清した人であったからだ。

 この本は、その彼の人生を鎌倉歴史文化交流館に腰を据えた山本みなみが、考古学研究の知見も加えて、整理した本だ。メジャーで初めての本でかなり濃い。

 彼女は政子の義母、牧の方の研究で名を挙げた人らしい。

 牧の方という人は歴史書ではわき役だけど、母を早くして出産でなくした政子にとってはとても厄介な人だったらしい。彼女があの時代、二十代まで結婚できなかったのは次々なくした妻の代わりの主婦だったからだろう。

 その後、後妻の彼女にたくさん子供ができたこと、義母が京都出身で中央の政治に近い中流貴族の出身だったのは厄介だった。

 源氏物語で父に認知されない浮舟が義父の血を引く妹に縁組をとられた話があるように、社会保障や義務教育がない時代の親を失った子供がどんな目に会うか。どんな扱いをされるか。物語に描かなくと周知のことだった。

 そういう政子が源氏の御曹司である頼朝が目に入った時、身を託したいと思ったのは必然だったと思う。

 頼朝は結局は北条の後ろ盾で冨士川の合戦で平家に勝利を得た。でも、北条政子は妊娠中で嫡男をあげていなかった。

 そのとき現れたのは源義経だ。彼は赤んぼの時に父を亡くしたので10歳まで義父にいつくしまれて貴族社会に育った。そして、義父の親族だった平泉の有力者、藤原氏を頼った。

 義経記って眉唾だなって思ってたけど、他の歴史書によると、かなり教養も高く孫子なんかの兵法書を読み解けるような青年だったらしい。義弟たちとも仲が良かった。なにより、鞍馬山から一発、命をかけて平泉に行く勇気。彼が歴史的なスターであるのは必然だ。

 もちろん、頼朝もメロメロになり、猶子にしたらしい。父子の縁を法規的に結んだことが資料にあるそうだ。

 男の子ができるかどうかわからない当時としては年配の彼がそう思ったのは仕方がない。

 しかしですね、妊娠中のまして、妊娠にトラウマのある妻としてはどうですかね。

その上、頼朝は亀の前という以前からよしみを通じてた女性とよりを戻す。頼朝は京都の源氏の棟梁の息子なので、後ろ盾として、先祖たちのようにたくさんの妻を持ち、たくさんの子を持つことは喜ばしい。まあ、素性の低い女だから有力な後ろ盾もないからいいかという感じだったと思う。男のエゴです。

 精神的に圧迫感のある嫁の実家に支配されたくない気持ちは強かっただろうと思う。 

その後、政子は牧の方にそそのかされ、うわなりうちを決行する。亀の前の家を破壊しる。それに対する報復で頼朝は牧の方の親族を辱める。そして、舅である時政が幕府から出て行ってしまう。

 笑い話みたいなエピソードだけど、政子としたら必死だったと思う。父夫婦も彼女への頼朝の愛情だけを頼りのしてるのだから。そして、残るのは夫への不信感。あの時代、親兄弟を亡くした人たちがどんなにつらく諍うか。

 その後、義時は頼朝の斡旋で嫡男、頼家の乳母と妻の実家である比企家の娘と30歳ぐらいで結婚する。

 これは由々しきことで、北条氏の長男で政子の同母弟とあろう人が有力な家の妻を持てなったということだ。牧の方が怖くて縁を結べなかったという事だと思う。そして、義理の弟を何とかしてあげたいという、頼朝の愛情も感じる。

 その後起こる頼家の失脚も、彼が姑的な立場である乳母である比企の尼の一族の養子のようになっていて政子との親子の縁が薄かったからだろう。どんだけ政子の地位が危うかったという事なんだろうと思う。また、頼朝という人がどんなに孤立していて、長男を取り上げられるほど立場が弱かったかということだろう。お父さんは息子たちを引き取ってますからね。

 そういった背景を持つ義時が、頼朝の死後、粛清を繰り返したっていうことは家族を頼る社会の怖さを感じる。そういった意味で歴史を知るのは面白いなって思う。