oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

日本の女は悲しいか

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もやっとして言えないんだけど


 昔、「淋しいアメリカ人」という本を読んだとき、著者の桐島洋子が、アメリカの知的なキャリアウーマンが、使用人に育児や家事を丸投げしてバリバリ働いているのに、うっすらとした疑問を感じていると書かれていた。よく、アメリカとか女性の進出が進んでいるといわれるけど、どうなんかなと思っている。中国とか中東とかも女性の医師とか多いと思う。どちらかといえば、女性であっても、富と階級に恵まれるひとは知的な仕事に就けるってことだと思う。たぶん、いろんな雑用を丸投げして達成される貴族の働き方が基本なんじゃないかと思う。そういった人は能率がいいので、競争に勝てる、生き残れる。

 人間はバカでないので、人を踏みにじっての生活がいいとは思えない。そういったいろんな雑用を科学で省こうとしたのが、アメリカの郊外住宅的な生活なんじゃろう。しかし、それは生身の人間がわらわらしていた時代の温かみには欠ける。そこに映画でいうとデビット・リンチ的だったり、ロメロ的だったり、テレンス・マリック的な悲喜劇が生まれたのだろうと思う。過酷な自然にかこまれての「大草原のちいさなおうち」はどこまでいってもそうで、わずらわしい付き合いを省いたら、荒廃しかないのである。

 そうして、その生き方をまねした私たちといえば、古い母系を基本とした伝統社会のうえに混乱しているのだと思う。日本の男は孤独だ。つよいおっかちゃんが孫育てまでしてくれて、嫁がいばっている。家に帰ると居場所がない。でも、その助けがあるからこそ、職場でいい立場が維持できる。日本の女がつらいのはそこなんだろうなと思う。

 男の働き方が母系的な支えを基本としている限り、そこを肩代わりする人が必要になる。それを前提にして女も戦わないといけない。しかし、女性が支えるのが当たり前のやり方だと、今、男はつらい。今回の東京医大の入試の不正は、そういった居場所が職場だけになったおっさんのとんでもない陰湿な嫌がらせだと思う。性的なフォルターをかける差別が多い質問のもんだいとかね。

 むかしは家というものがあったのだろう。しかし、男が母親に支えられて、仕切りっていうことは、娘というものが犠牲になるわけで。しかし、その疑似的な存在になった職場の制度もしんどくなったわけで。

 

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 今読むと、ほんとつたない文章なんだけど、平安時代後期には今のもんだいの基本的な部分は出そろっていると思う。紫式部は日本の元祖働く女性だ。

 

 

「夕凪の街 桜の国」幸せになることへの戸惑いから

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www.nhk.or.jp

 ドラマになった「夕凪の街 桜の国」の川栄李奈さんの熱演をみて、この漫画が原爆の日の地上波で放映されているのをしみじみよかったなと思う。切望してみた、がらんがらんの映画館の映画は、いろんな意味でつらかった。まず、予算が俳優が、集まらなかったらしい。堺正章のおとうさんは原作の軽みのある名演だったけど。

 原作の原爆症でなくなるヒロイン皆実の「嬉しい。十年経ったけど原爆を落とした人は私を見て、やった。またひとり殺せたとちゃんと思うてくれとる」のモノローグ、初めてよんだときびっくりしたけど、きちんと映像化されてましたね。川栄ちゃんは「男の操」で恋愛ですり切れた年増役に挑戦したり只者ではないと思ってたけど、うまいねえ。原爆のトラウマのシーンもよかった。まんべんなくどろだらけになっていた。京花ちゃんを演じた小芝風花も力強かった。キムラ緑子さんのおかあさんも悲しみがあふれていた。このお母さんはこの話のキモだと思う。無念さゆえに孫たちに呪いをかけるのだ。

 モノローグは原爆を落としたアメリカを非難したととられていいと思うけど、トラウマ場面でほのめかされた原爆にあってモラルを踏み外していく、生き残った自分に対しての怒り、自らに刃を向けていると思う。その刃は生き残った人々に共通するものなんだろうな。なかったことにはできない。いなかった人にはできない。過去の上に自分がある。

 これが私にはこたえたな。たぶん、この漫画を読んだ多くのひとに届いたと思う。過去に起こったことはなかったことにできないことを。それは誰にでもあることだからだ。しっかりと見据えないと幸せになることへの戸惑いは消えないのだなあ この原作はそういった意味で原爆の悲劇を単純に描いたのでない。ドラマ化でまんがのモノローグの美しさがきわだったので、舞台でも見てみたいなあとせつに思った。

 

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「戦慄の記憶 インパール」初めて見えた記憶

 

 昔は戦場ものを避けてたのだが、映画「野火」を見てから、これは私の人生でいつか見た記憶だなあと感じられるようになった。そして、このドキュメンタリーをぼんやりと見始めた。まず、インパール作戦についてまるで知らなかった。そのなかで、二十代前半の将校さんが記録した、軍部幹部の愚行の数々、そして、食人がおこなわれた悲惨な戦場のありさまが語られる。戦記や生き残った兵士の証言や幹部の息子さんが頑張って残した父の書類が、その記録を裏付けていく。

 マラリアに倒れた若き将校は戦場に打ち捨てられて、俺も喰われるかと書き記した手記をポケットに入れた。それが、イギリス軍にわたって公開されたらしい。最後に、老人介護施設でぼけぼけになった車いすの老人をスタッフが訪ねる。その話をすると、老人はかっと目を見開いて、命がよみがえる。「見つけてくれたか」と語る。彼は一度も、家族にも周りの人にも過去を語らなかったらしい。

 それを見て、思い出したのは村上春樹の最新作「騎士団長殺し」の隠された絵を描いた老画家が、その絵を問われたときのシーンだ。この小説は、作者の戦争について沈黙を守った父の最後を描いていると思っている。隠された、打ち捨てられた言語化しできない思いを発見する。戦場に父なるものを送った人々の共通の願いなんだろうと思う。そして、夫なるものを。老人と同世代の橋田寿賀子さんがこのドキュメンタリーにいたく感銘を受けたらしい。父なるものとは何か。それは社会のシステムに通づるものかもしれない。村上春樹のスピーチで語られた「卵と壁」。みんなを自然の脅威や戦いから守ってくれる壁。それは何かしらの等価交換を欲しているような気がする。そんなことを感じながら、見ていた。その等価交換は今でも常に行われていて、卵でしかない生身の私たちをそこなっている。そんなことをこの夏感じている。

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変化することへの祝祭「きのう何たべた?」

 

きのう何食べた?(14) (モーニング KC)

 

 本棚の整理をしていたら、「きのう何食べた?」がでてきて、読み込んで、ほっこりしてしまった。最新刊を読みたいなあと思ったら、新刊が週末出るではないですか。

 この漫画は、よしながふみさんのBLマンガのながれを継いでるお料理まんがと、とらえられていると思うけど、ふつうのひとの波乱万丈をえがいたまんがでもあると思っている。

 ふたりはいい仕事につき、すばらしい隣人にもめぐまれ、しあわせなカップルとして描かれている。出てくる人たちも幸せなひとたちばかり。最近は、広がって、そういった家族の食の楽しみも描かれる。嫌味に感じないのは、思いやりと常識のある人たちとして、描かれているからなのかもしれない。こんな環境、そうそうないわなって思うけど。

 でも、その人たちにも困難な時期があり、周辺にいろんな不幸があることがほのめかされているのもいいですね。叔父さま雑誌の「週刊モーニング」連載っていうのもあるのでしょう。老いること、変化することを肯定的にえがいているのである。そうだよな、こういったコメディを楽しめるひとは、生き抜いた人、少なくとも、これを楽しめる余裕があるひとなのだ。そして、彼らに変化していくことを楽しみましょうってメッセージを送っているのだ。漫画の中の人々は、ささやかだけどねって言いながら、お料理という形で、読者にギフトを送っているのがうれしい。

 最終章でカップルのひとり、けんじに、あっという偶然のかたまりで、思いがけない変化が訪れるけど、このあたり、リアルでよいですな。一年後ぐらいに新刊が出ると思うけど待ち遠しい。

週刊モーニング、読んじゃおか。そういった意味でも、親切なまんがなんである。

 

きのう何食べた?(14) (モーニング KC)

きのう何食べた?(14) (モーニング KC)

 

 

ノスタルジーだけでは「焼肉ドラゴン」

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 映画館でえらく力が入っている宣伝を見て、よさそうだけど、今更、映画化かあって思った。韓国映画は韓流ブームが終わり、名作があっても、東京の名画座系の映画館でちょこっとかかるぐらいだ。まして、在日の人々のはなしだ。

 原作は、弟が、原作の舞台を見に行ったりしていて、気にはなっていた。新聞で、韓国でも上演され大ヒット、初めて、在日の存在を知らしめたということが記事になっていた。在日の人たちが、李朝の流人の島、済州島の出身が多かったこともあってほとんど知られていないこと、祖国を捨てたということで差別があること、そして、帰国した人が隠してすごしていることを初めて知った。

 大学のころ、阪急電車で、高校の同級生と再会した。同じ中学から進学した男子がソウル大学に入学して、エリートになって祖国に帰れてよかったと、すごくで喜んでいたこと思い出した。梅田駅で彼女と別れたとき、わけがわからなく、ものすごく、腹が立ったのを思い出した。

 口も聞いたこともない人気者の彼に対しての嫉妬かなと思った。しかし、読んでみて、エリートの親せきに囲まれ、成績がわるく、女であることでも差別されていた私は、そんな簡単なもんじゃないって、言葉にできない感情があったんだとわかった。そのころは、私は、まだ、北朝鮮への帰国事業の悲劇も知らなかった。町の人たちは、ときどき、帰国して、おみやげを配る北朝鮮籍のひとを喜んでいた。 

 映画を見て、そんな、複雑な立場の在日のひとたちの想いと町のひとの信じたい思いに涙した。そして、差別と暴力に満ちていたが、深くかかわりあった日々を思い出した。素晴らしい戯曲の言葉の力が、焼肉屋の三姉妹を演じた女優たちの名演技を引き出している。井上真央の思い切った演技がすばらしい。桜庭ななみの韓国語の捨て台詞も切れがあった。彼女、中国語、韓国語を真剣に勉強してたのか。真木よう子のおさえた演技も色っぽい。セットの素晴らしさ、焼肉の匂いの感じられる映像もよい。なによりも、この映画は時々はさまれる韓国語にしっかりとした字幕がつく。それこそが、映像化の意味だったのだと感じた。

 受けである大泉洋をはじめ、脇の演技もいいが、在日の両親を演じた、韓国人俳優二人の演技が胸をうった。不法占拠の接収に来た役人にあらがう夫婦、三女の結婚に対しての、たどたどしい父の日本語の人生を語る切実さ、そして、ぐっと泣かされて、笑わされるラストのふたり。この芝居に、韓国人と日本人の俳優のことばの演技のうわずみを取り込んでみたい。それが可能になった今の映画化のしあわせな結果なんだろう。日韓の俳優がともに参加できる世の中の変化があってこそだ。

 このラストでふいに浮かんだのが、松竹新喜劇でみた「桂春団治」の幕切れだ。藤山寛美の喜劇は話がすごく暗い。しかし、そこに笑いを絡めていくタイミングが絶妙なのだ。たぶん、「焼肉ドラゴン」は、歌舞伎から始まる、日本の大衆演劇の方法や作劇を引き継いでいる。そこも涙した。

 完成された舞台の映画化で、ワンセットで展開される構成上、どうにも映像としての動きがとぼしいところが気にはなる。そこでは、息子の悲劇も象徴的にえがかれて、強い力があったのだろうなあと思う。それにしても、この映画は、これからの社会の方向性を示す力強さがある。

www.yakinikudragon.com

 

 

 

 

 

 

「万引き家族」よどみのなかにあるちいさな兆し

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 私が是枝裕和の映画を見始めたのは、「空気人形」からだ。「誰も知らない」が評判になって、好奇心が刺激されたからだと思う。あざといなと思いながら、死のにおいが切実にする映画だった。それまでは、なんだかすかした映画をとるアート系の映画の人のひとりという感じでみていた。そういった映画は、確かに映画祭なんかで、ちょっとした賞はとるけれど、せせこましくみる人をえらぶ。

 答えを知りたいっていう感じは、その監督の映画を見続ける動機の一つになると思う。で、ずっと待っていた次作、「そして、父になる」のラストは納得できなかった。主人公が子供の取り違い先の家族にひかれて交流する。あったかいけど、こういった親は子供の小さいときはいいけれど、大きくなったら足をひっぱるのだなあ。やっかみもあるかもだけど、「ぐれるよ」って言っていた山田太一は鋭いと思った。そのアンサーが「万引き家族」だと思う。やはり、リリーフランキーの父親はやばいって。

 困っているひとは困っているひとにするどい。なぜなら、自分を救うことになるから。しかし、面倒はみきれない。力不足だもんだから、破綻する。そんな人をたくさん見てきた。そして、もっと残酷なことになる。

 余裕のあるひとが困っている人の面倒をみる。それがいい。でも、普通の人は足をひっぱられるのですよ。だから、どんどん優秀なひとが求められる。でも、そういう人は困っている人を実感できない。ここがやっかいなんだな。そんなことを思いながら、この映画を見ていた。

 作りての混沌まで写しこんでいて、人をいろんな意味でざわざわさせる映画だと思う。私の好きな詩で、小林一茶の真っ暗な雪に閉じ込められた冬の農家で、保存食のねぎが芽ぶくことをつづった文章がある。

 ねぎは へっついにうえりて 青葉をふき、雪に囲まれて真っ暗な農家の風景だ。

その春の詩

雪とけて 村一ぱいの 子どもかな」

生き残った子供たちの歓喜の声だと知った。そして、生き抜いてついに家族を作れる一茶のよろこびの歌。

 

 「万引き家族」の荒廃したありさまが写しこまれる。でも、その中にある光あるけしきは、ぞっとするほど、色っぽく美しい。そういった世界の中の兆しを信じたいという願いをえがいた映画だと思う。 

gaga.ne.jp

 

 

  小林一茶的な世界観について感じたことを書いた文章です。なんとなく、この映画とつながっていると思う。

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映画「タクシー運転手」運転するってことについてのあれこれ

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 ソン・ガンホの庶民的な笑顔のポスターと若いころ起こった光州事件の不可解さに心ひかれ、映画館に行った。わかんないことをと思ったけど、きっと、この映画は大したことないひとの目線で事件をみせてくれる、そんな気がした。人のきゅう覚はするどいものだ。もやっとしたことを知った年配のひとが多かった。お隣の老夫妻はめいっぱい笑い、涙していた。なぜ、タクシー運転手が光州の事件で活躍したのか。なんとなくわかったけど、言葉にならないもどかしさがあった。その晩のTBSの荻上チキのラジオで背景を聞いて納得できた。

 思い出したのはイギリスの貴族のお城を舞台にしたドラマ、「ダウントンアビー」だ。はなしは、まだ、馬車が走っていた第一次世界大戦前から、自動車レースが花形になる第二次世界大戦前でおわる。女性のドレスのすそが短くなったのは、そのたった15年ほどだった。その中でアイルランド人の運転手が、重要なキャラクターとして描かれる。彼は独立運動の闘士で、雇い主の貴族の女性と結婚する。新しい技術を身につけた運転手が、教育がないのが当たり前の使用人の世界で向上心があり、その過程で社会的な関心を持った人物が多かったということなんだろう。もっとも、彼は母国では自作農らしい。外国人でもある。そのあたりもうまいなあと思う。

 このころ、やっと、人々は学校に通いだす。若い人は、小学校程度の読み書きができる人がその立場を脱していく。最初のころはご主人さまとうなだれていた村人が、最終話のころにはお城の見学会で美術品を鑑賞する。たぶん、その間に教育がある人が増えたのだ。このダイナミズムがドラマの面白さだった。

 ラジオによると80年代の韓国は、まだ、義務教育が小学校までだったらしい。まだ、字が読めない人があたりまえにいる社会だった。その中で、免許を取るということが、いかに努力がいるかわかる。韓国の進学熱を面白おかしく報道しているけど、学歴は長く、お金で買うものであったのだ。

 そのなかで、優秀なこどもは、学費がほとんどいらない士官学校をめざす。国家に養われていた彼らが、国家によっかかって、エリート意識が強くなり、人を人と思わないのもわかった。まだ、戦争のかげで前近代がのこっていた。みんなが徴兵制で参加した朝鮮戦争ベトナム戦争があったし、抑圧する側も反抗する人も暴力がみじかにあった。しかし、まわりの世界はどんどんと変わっていく。光州事件は、そんな社会の急激な変化の中で起こった悲劇だったんだと思った。そこのところが隣国ではピンとこなかった。

 映画は最後、とんでもないエンターテイメント展開して驚くが、監督のそんなこんなの、かつての理不尽にがまんできないっていうのが感じられて、私的にはいいなあと思う。そうか、運転するってことは、主体的につながる、何かがあるのだと思った映画だった。

klockworx-asia.com

 

 

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