oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

物語の終わり 源氏物語 宇治十帖

 

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 物語の終わりといえば、昔、大学で学んだ、源氏物語の宇治十帖が、印象に残っている。宇治十帖とは、主人公の光源氏が亡くなったあと、子孫の人々の恋愛模様を描いた話だ。薫という男が、恋人を亡くしてしまった。そして、身分の低い義理の母から生まれた、恋人そっくりな妹を見つけ出し、囲う。そして、その美人の娘を、親戚の匂宮という皇族の男が見つけ出して、誘惑してしまうという話である。

 最後、主人公の浮舟が、三角関係に悩んで、自殺をはかる。そして、死にきれず、囲われていた薫に消息が見つかる。そして、迎えにきた弟に、戻りませんと、書いた手紙を託す。それを読んだ薫は、身分の低い俺以外と付き合ってしまうような女だ、別に、男でもいるんじゃないかと思う。仏門まではいっていてもである。周りの助けた人々も、還俗して世話してもらったらと思っているのである。で、話が尻切れとんぼで終わってしまう。なんだ、この意地悪で、みもふたもない終わり方はと、当時は思った。

 こうなったのは、作者の紫式部が、亡くなり、物語を完結できなかったからだと思う。しかし、もうひとつは、私はここまで、考えました。力つきた。読者の皆さん、これから、どう、思いますという、後の人に託すという意図もあったと思う。

 そもそも、宇治十帖は、身分が低く、身寄りにも恵まれない浮舟が、上流階級のお坊ちゃんふたりにおもちゃにされる物語である。男たちは、それぞれに、真剣に考えているつもりだが、浮舟にとっては、自分の理想を押し付ける薫と、男としては魅力的だが自分のわがままを優先する匂宮の、どちらとも、結ばれても幸せになれないのが、分かってしまっているのである。だから、宇治川に身を投げるのである。

 このなかで、「男女の中」と書いて、「よのなか」と読ませる言葉が印象的だった。昔は、ちまちました貴族の話を書いた浮き世離れした話だと思っていた。しかし、この言葉は、男女の中だけではなく、人間の社会の中での男性性と女性性を表した言葉でもあるんだなあと思っている。

 源氏物語が書かれた、平安時代は、女の人がアラブの人のように、虫の垂れ衣というベールをかぶって外出した時代である。前の奈良時代では、顔出しして、自由に闊歩していたのにである。男の腕力で作った社会でいかようにも女の形態は変わるのだ。

 しかし、それは、女の望んだところもあるのである。当時は、結婚が、制度として、守られていない。だから、顔見て気にいったなら、拉致って自分のものにしていいわけである。そして、財産のある女を手に入れることができる。

 子育てをする女が、親から、財産を相続されていた時代である。女の人にとっては、たまったものではない。前時代なら顔見知りの狭い世間だった。しかし、交通が発達して、人の移動が激しく、人口も増えた社会ではあぶなくてしかたがない。

 その、便利で人の死ににくい社会というものは、みんなが望んだものだある。だから、次の時代には、嫁入りという制度ができて、財産は男から男に相続されるようになる。明確に、夫に守られるという形になって、女は暑苦しいベールから、徐々に、解放されるのである。

 そうなると、財産があり、移動性の高い男のおかげで、ますます社会は便利で楽になるのである。しかし、それは、女の不自由さが強くなるということでもある。だからといって、家に定着して子どもを育てるということをやめるわけにはいかない。

 そういった意味で、この宇治十帖は、時代をさきどりした小説だと思う。男が、自分より立場の弱い女性を不自由にする。そうなると、平安的な恋愛は、成立しない。女の意思というものは、とても弱くなるからだ。よのなか、男女の中に、社会の変化があらわれている。

 これから、女はどう生きたらいいのだ。紫式部は、上品な人だったので叫んだりはしない。意地悪にボソッと、主人公を追いつめるだけである。物語の終わりは、もう、私書けないで終わる。物語は終わる。紫式部はいない。でも、読み手の現実は続くのである。

 

 

源氏供養〈上巻〉 (中公文庫)

源氏供養〈上巻〉 (中公文庫)

 

 この本が、学校で、ちょこちょこ、つまみ食い程度に、原文を読んでいたときの、違和感を考える参考になりました。訳は円地文子田辺聖子版を読んでいたりします。

 

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 五年ぶりに源氏についてまとめて書いてみました。宇治十帖についても別の見方でかいています。

 

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