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oohaman5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと、書いています。

生身の人間がいる。映画「沈黙」

映画 読書

映画チラシ 沈黙 サイレンス アンドリュー・ガーフィールド

 昨日、映画「沈黙」を見てきた。若いとき、感銘をうけた小説だ。何年か前、修道士を志したマーティン・スコセッシが映画化すると聞き、面白いなあと思ってずっと待っていた。ちなみにスコセッシの映画は「タクシードライバー」と「ギャング・オブ・ニューヨーク」しか見ていない。ファンとはいえないなあ。しかし、歴史への興味が似てるんだろう。後者は、今は絶版になってる原作をがっつり読み込みました。後から来た移民が居場所を求めて、手段をえらばず闘い取っていくはなしだ。そのなかで描かれた、ニューヨークの貧民街の最下層のアイルランド系と黒人が混血して、白い人が白人として、黒い人が黒人として生きていった歴史は驚きだった。その本しか読んでないので異説もあるだろうけど、アメリカの人種間の問題の根深さなんだろうと思う。アメリカの黒人はアメリカ人なんだ。二度目に映画をみたとき、アイルランド系の敵役と娼婦を演じる黒人の目鼻立ちの白い女優さんたちの絡みがカラバッジョみたいだと思った。善悪を超えた人間の業の輝きというものだろうか、美しかった。映像で歴史を語るってこういうことだなと思った。ちなみにヒロインにキャメロン・ディアスが出ているけど、名前が示すようにヒスパニック系の白いひとなのだ。そういった人々の手段を選ばない戦い、生き残ることの切なさ、無残さが「沈黙」に通づるものかなと思う。生身の人間の尊厳があるから、そんなはなしも輝くのだ。

 「沈黙」は母が信じたキリスト教がどうにも合わないと感じた遠藤が、その布教の問題点をさぐった小説だ。その問題をスコセッシは、映像で物語る。なぜ、かつてキリスト教が定着しなかったか。そこには宣教師たちの無意識にある教化するというエリート意識の思い上がりがある。だから、まず、彼らと同じような支配層であったインテリ層に布教された。しかし、日本には強固なもともとの宗教観がある。そんな内面を見下されたことに、嫌悪感を抱いた彼らにしたたかに逆襲された。それは実はすでにヨーロッパで、アジアで、南米で問題になっていたことだった。なぜ少年たちが遣欧使節に選ばれたか。それは純粋無垢な子供扱いされた蛮族の象徴だったからだと思う。蛮族だからなにかを奪ってもいい。映画で浅野忠信演じる通詞が、捕まえた主人公の宣教師を「傲慢なやろうだ」と吐き捨てるのは印象的だ。しかし、病や貧しさから救いを求めて、心を差し出した人々は既成の社会への無言の批判者だ。それも彼らには腹たっただろうな。

 そんな善悪とか正しさとかでは割り切れない人間の生の感情をえがいた原作をスコセッシは映像のちからで美しく描いてくれた。拷問のシーンでさえ美しい。人間の命の輝きだ。塚本晋也演じるモキチの姿の神々しさよ。霧にむせぶ情緒的な映像。圧倒的な自然、厳密な時代考証、そして的確な演技指導。日本の映画界でも居場所が定まらなくなったナイーブさを持つ、窪塚洋介のキチジローはいい。キチジローは相変わらず強さや優秀さに優劣をつけて信者に求めたキリスト教に苦しんだ遠藤周作の影の自画像だと思う。卑怯でしたたかでなさけなく、そして依存的な。善悪とか裁くことよりも、あったこと、為したこと、そして内面に抱いているものが大切なんかもしれんなと思わせる映画だと感じた。

 

 追記したいことがあります。

 若いとき、キリスト教に憧れの先輩から誘われ、断ったら記憶が落ちるほどの暴言を吐かれたことがあります。しかし、今考えると彼女よりよほど辛い人生を過ごしてたと思う。彼女の実際は知らないですけど。でも確かに私は、苦労に甘えたいやなやつだったです。それを踏まえて生き続けるって悪くないです。それゆえ、「沈黙」は大切な本です。

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いっしょ過ごした「少年の名はジルベール」

マンガ 日々の思い 映画 読書

 私が中学時代、大好きだった萩尾望都先生が竹宮惠子先生いっしょに共同生活をしていたのを知ったのは、ずっと後になってからだ。一年ぐらい前から 、漫画家をめざして上京し、「風と木の詩」を書かれたいきさつを書いたこの本を読めずにいた。そして、そのころのことを色々と思い出してた。中学のとき、私が漫画を好きなのを聞きつけてともだちになってくれたひとがいた。彼女が大好きだったのが竹宮先生だった。ふたりで「サンルームにて」を読んで、いつ、このジルベールという少年が主人公の漫画が描かれるのか、興奮して語り合ったものだ。「サンルーム」初めて知った言葉だ。ガラス張りの離れ家のことですね。おフランスのすてきなこと風俗が描かれ、背徳的でわくわくした。学校のなかで他に読んでいたひとはいたのかな。大概は、マーガレットとか、読んでいたのかな。友達の少ない私たちは気がつかなかった。この本を読むと、ファンレターを書いた人も少なくなかったらしい。いっしょに言葉を持って、先生たちを応援していたひとがたくさんいたのだ。おなじ中学生でも、ずいぶん違う。私たちはいろんな意味で差別される境遇だったので、自己肯定感が低かった。やさしくされることを期待して、手紙を書くことを思いつきもしなかった。しかし、そういった私たちに強い励ましをくれる人たちであったのだ。

 この本では、徳島から上京した竹宮先生が増山法恵さんという友だちと出会い、彼女を通して、すごい才能の持ち主である萩尾先生と共同生活をすることになり、そして、ふたりで学び合う二年ほどの際月が描かれる。そうか、私が、初めて出会った「空がすき」のころだったんだとと知った。「空がすき」は楽しかった。当たり前だ。「シュルブールの傘」を始め、フレンチミュージカルを徹底的に研究して書かれてたのだ。その後、「アラベスク」の山岸涼子先生を加えて、シベリア鉄道を経ての長期のヨーロッパ取材旅行に行ったこと。そして、萩尾先生へのしっとに苛まれ、決別する日々が描かれている。

 あのころ、ふたりは、はたち過ぎたくらいだったのか。しかし、あの年代のひとは母親になるひとが、ほとんどだったからだろうか、覚悟が違う。漫画で革命を起こそうと理想をかかげていたのだな。そのための猛勉強はすごいな。映画の脚本のしくみがわかり、教養がある増山さんが、すごいと驚いたようだが、こんなひと、今の日本でもそうはいない。おふたりも元々、相当な知識と教養がある。女性が絵で食べていくということが成立しているのは、日本の漫画ぐらいではないだろうか。そのころ読者としてすごせたのに身震いする。

 意外だったのは、そのころもアンケートがあって、竹宮先生が一度も一位になったことがなかったことだ。少女コミックのなかで輝いていて、みんな、ふたりが読みたくて、読んでいたのではないのかな。もちろん、「ロリィの青春」の上原きみ子先生の作品も好きだったが、いささか、子供っぽかった。こう書いていると、アンケートにも気付かず、旅行記を流し読みしていた、私にびっくりする。相当、混乱していたのだな。確か、一ヶ月ほど学校を休んだこともあった。連載された、「ファラオの墓」はしっかり覚えているし、萩尾望都先生が影響を受けた手塚治先生の漫画を求めて、最後の古本やに出入りして、白土三平忍者武芸帳も読んでいたのは覚えているが。確か、萩尾望都先生に、とんでもないファンレターを送ったことがあった。投函したあと、届かないことを祈った。

 しかし、そんな、私にも、おふたりのメッセージは届いたし、友だちを得ることができた。内心は、その境遇をバカにしてなかなか打ち解けない、ひねくれ者の私のよくぞ友だちになってくれたと思う。ご両親が信じる宗教系の進学高に入って縁が薄くなった彼女に、最後にあったのは、人混みの中の十三駅のホームの向かい側だった。障害のあるひとたちを引き連れてのジャージ姿だった。にごりのない笑顔を向けてくれる彼女に対して、女子大生だった私はうつむいていたのが、情けなく辛い思い出だ。なぜか、名前も忘れてしまった彼女のことが忘れられない。私をいじめてた、その後、16で子供を産んだ少女のなまえはしっかりと覚えているのに。

 

 

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール

 

 

 

忘れたことの忘れられないこと 波津彬子「玉藻前」

マンガ 映画 読書 テレビ

 波津彬子、漫画文庫で「玉藻前」か、ふむふむ面白そう、なんかすごく読みたい、なぜだろう。そこで、はたっと思い浮かんだんですね。それは子供のとき、何度もテレビでみたアニメで、 ヒロインが「玉藻前」というのがあったのですね。悪に染まったヒロインが改心せず、主人公の片思いで終わるという話でした。悪を為す人はある地点で引き返せない。心が冷めたら、ひとはもどってこない。そして、報われない愛に殉じる主人公のけなげさ、つらい話でした。SNSで調べてみると、「九尾の狐と飛丸」という題で、どうやら原作がおなじ岡本綺堂らしい。昔だったら、なんだかムズムズするということでおわり、わからなかったかもしれませんね。

 もともと、「玉藻前」の話は 保元、平治の乱が、鳥羽天皇の女性関係が原因のひとつだったのと、そのころ発見された那須温泉の毒である硫化水素のでる泉源にある、大きな石「殺生石」との話を結びつけた説話だったようなんですね。インドの悪女や殷の妲己の生まれ変わりである玉藻前が、鳥羽天皇をたぶらかすはなしで、僧侶が作った話っぽいですね。

 漫画の解説によると、岡本綺堂は、「玉藻前」をフランスの古典的な吸血鬼小説、「クラリモント」と結びつけたらしい。修道士とその師匠と吸血鬼のはなしだそうです。どうやら、性的な堕落と戦うはなしのようです。なんというかミソジニーっぽいです。岡本綺堂はその二つのはなしを大胆にも若い男女の悲恋ものに構成しています。だから、鳥羽天皇に会う前にはなしは終わってしまう。若い男女の死とエロスのはなしですね。

 しかし、この話をアニメ化しようとよく思ったなあ。子供向きではない。大映系のアニメ会社若尾文子の映画をとっていた増村保造が関係してたようです。だからかな、悪女に翻弄される男の純情のはなしなのは。ちょっとナルシステックだった。

 ところで、ほぼ忠実に再現された漫画では、玉藻前は悪に支配された女でありながら、主人公に心を寄せ、誘惑しようとします。悪女でありながら、純情なのですね。アニメと原作どちらが正しいというわけではない。どちらもありで面白いです。

師匠がねちこく説得する、それに応じて、主人公はヒロインを追い詰める。同性愛的な感情もえがいていて、複雑です。女性に対する恐怖に対しての、男社会の誘惑といったところでしょうか。これは、アニメでは、さすがに省略されていて、師匠は影が薄いです。純情な乙女のなかにあった悪のこころ、それが何かしらの邪悪なものに操られてることになっていても、それは彼女の意思でしょう。それでも、主人公は彼女に殉じます。

 波津彬子さんの「玉藻前」はそんな救い難きと戦う愛についての物語を、流麗な絵とたくみな構成で見せてくれます。堪能しました。そして、悪とはなにか、欲望とは、救いとは、一筋縄ではいかない作家、岡本綺堂のせかいに導いてくれます。

 

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

 

 アニメについてはこちらのサイトのコラムで知りました。元々はやはり、実写の企画で、スタッフは、横溝正史ドラマ「悪魔が来りて笛をふく」を作ったひとやガンダムに関係したひと、アニメ「どろろ」なんかのひとだったようです。

eiganokuni.com

 

「逃げるは恥だが役にたつ」自意識のもんだい

テレビ

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 ドラマ「逃げるが恥だが役にたつ」SNSで評判だったのでぼんやり見だしたのだが、これがびっくりするほど刺さったので、感想を書きたくなりました。ちょっと昔の時代劇やらに新妻ものというは結構ありましたね。かつてのお年寄りはそれに結構萌えたのだ。今の人はあほらしいって見ないかな。でも、アラブの王様に囚われた主人公がだんだんととか、少女漫画でも定番ですね。その現代版みたいな感じで見ていました。

 新味としては童貞をこじらせたっぽい星野源と、とびっきり可愛い新垣結衣が主役なことだろうぐらいだ。新垣結衣はあんまし興味がなかった。わたしの中では「恋空」っていう、トンデモ映画に主演したっていうイメージがあります。間違った努力でも熱意があれば恋に落ちるっていう幻想を主人公ふたりの可愛さでねじ切った話だ。実際このドラマでもお料理が上手で、引っ込み思案だけど、頭のいい、今の理想の女の子を演じている。守ってあげたいって感じですね。就職に向かない子が、契約結婚でお給料をもらうことを提案されるのだ。これもよく聞く話で、わたしなんかも家事やらお給料にしたらいくらと冗談で言い合ったりしたことがあります。

 それが、えっと考えさせられたのは、副主人公の風見さんが、星野源演じる、ひらまささんが、かつて付き合った初恋の人と似ていることを指摘し、新垣結衣演じる、みくりさんの恋心を認めて、彼女をあきらめる9回だった。そうなのだ、狙っている女の子が許してくれるだろう理想の女の子に、風見さんの彼女は負けたのだ。彼女は風見さんのそのままの彼女でいいという気持ちに気づかず、自分がどう見られるかのほうが大切だったのだ。それって、いじらしいと思うけど、自分のことしか考えていない。たぶん、今の若いひとって、ひととは違うことを肯定できなくって、ひとに深入りできないひと多いと思う。はたから見ると、ちょっとしたことなんですけどね。それじゃいけないっというのがこの話のキモなんだなと、すごく面白く感じた。それ自体はそんなに新しい話じゃない。原作のひとが前作で鎌倉時代後期の「とはずがたり」を漫画化してるのって面白いな。古典に多い身分違いの恋というのは、深く探っていくと自意識のもんだいにつき当たるのだ。だから今でも考えさせられませんか。

 周りに承認されることを求めるあまり、相手を受け入れることがみえなくなる。ひらまさくんが恋愛が成就したあと、迷走してしまったのもそうですね。養うのが男っていう社会由来の幻想に目が眩んで、相手がみえなくなる。でも、みくりにも問題があって、雇用ってお手伝いであって、相手に従うことでも依存することでもない。だから、結婚で給料がなくなることは愛の搾取って思うのは、それは元々対等でないからと思い込んでたから。どっちもどっち。夫婦って共同経営者なんですよ。本来。それは社長を実は社員が養っているのと一緒で、社員が気持ちよく働いてくれなければ会社は動かない。確かに社長さんの夢を実現するため、利益を上げるために会社はあるとしても、手伝いがないと動かないっていう意味では対等なんじゃないか。そんなことも考えてしまった。まあ、そんな簡単なことではない、社長さんになれるのは元々お金持ちで、社員さんにお金があげられってこと多し、人脈もある人多しで特別なひとっぽいしで、簡単ではないですけど、でも本来、上下があるわけではない、役割があるだけだ。なぜなら、ひとはひとりで何もなせないから。って脱線してしまったけど。

 つまり、限界のある別なひとたちが、一緒に生きたいから夫婦になるんです。だから、プールされたお金から、本来は堂々とお互い、お小遣いと休暇を請求できるしです。そして、どちらかが倒れても、そこに信頼と愛情の実績があれば、なんとかしようって思うはずだなんて、理屈っぽく考えてしまいました。うん、たかだかドラマで熱くなってしまった。新垣結衣ってコメディうまいって思って、初めていいと思ったし、星野源は感じいいし、恋ダンスは可愛いし、石田ゆり子はさすがだし、気楽に今の感じを楽しめばいいんだけど。

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善意こそがひとをそこなう「みんな彗星をみていた」

読書 映画

  遠藤周作の「沈黙」は私の好きな小説のひとつだけれど、いまいち背景がわからなかった。そういった悶々に答えてくれたのが、星野博美さんのノンフィクション「みんな彗星を見ていた」だ。このなかで星野さんがカトリックの世界への宣教は最古のグローバル企業で、マグドナルドみたいなものらしいと書いている。読んでて、彼女のインタビューにもあるが、どうやら、今、世界は、そのころの罪悪の清算をしているということにしみじみ共感した。そこにある、善をなそうとすることに、ひとは追い詰められるのだ。

 日本布教の頃、ヨーロッパではカトリックが、科学の発展や新しい新教、そして新大陸の富による腐敗で追い詰められていた。そこで、折しも始まった大航海時代、新しい土地、東洋への布教が決心されたらしい。そして、選りすぐりの優秀な人たち、家柄もいい、街の誇りのような若者が、宣教師として、各地に送られた。海を乗り越え、苦難を制した、筋金入りの人たちだ。そこへ既成の宗教に飽き足らない、心病んだ戦国時代の日本の人々が群がったようだ。最初にはいったイエズス会では、日本の高僧の行いを参考に、潔癖な日本人に合わせたマニュアルまであったらしい。

 そんな、深く日本人の心を取り込む様子を恐怖して始まった、キリシタンの弾圧は、元々、過激な浄土真宗からの転向が多かったりの深く傷ついた人々を追い詰め、そして、その人たちに共感し、居残った宣教師たちに、残酷な殉教を強いることになった。そして、信者たちはいつしか、殉教した人々の遺体につよく執着し、死を望むようになり、いよいよ邪教として扱われた。どうしてこんなことが起こったか、星野さんは、先祖の地にあった難破した南蛮船との交流の記憶にみちびかれ、中世の楽器リュートを学び、キリシタンの遺跡をめぐり、宣教師たちの文章をよみ、彼らの心を探っていく。

 彼女は、キリシタン迫害の現場、長崎の片隅に残された最初の殉教者を祀った教会の跡地、宣教師たちがほぼいなくなって、教義が土俗化して追い詰められた人々がこもった島原などをめぐっていく。それらは、今も世俗の権力に逆らっため、教会にも、日本にも無視されている。彼女は、権力者の感情的な行為、ローマの冷たさ、そんなことを見なかったことにして、長崎の教会遺産とはばかばかしいなあと、本のなかで疑問をもっている。それは、キリスト教系の学校で学んだとき感じた違和感でもあるらしい。

 そんな残酷な人間の現実をよそに、その当時でも、ヨーロッパでは、すぐさま、日本で起こった殉教が、熱狂的に絵画や演劇にされ、日本人の残酷さが強調されたらしい。ヨーロッパは日本を凝視していたのだ。そして、それは、ある意味、世俗化する前のカトリックが最後の輝きをもった、日本への布教の興奮だったのだ。そのなかで、「沈黙」で描かれる、上流階級出身者が多い、イエズス会のリーダーのひとりフェレイラがころんだのは、衝撃的なことだったらしいことも納得できる。

 しかし、それでも、大概の現実的な選択をしたなかで、一部の宣教師たちが、その殉教を引き受けたのか。それは、海を越えてまで、悩む人々に真摯に耳を傾けた、彼らへの尊敬と、そのひとたちを一途に信頼し、正しく生きようとする信徒たちへの宣教師の尊敬が起こしたことなのだ。結局は、ひとはひとを切実に必要としている。実に人間くさいことなのだ。たぶん、その後の植民地などで行われてた営みなのだろう。それが文化や秩序の破壊、そして搾取につながっとしても。愛というのは厄介なものだ。

 星野さんは最後、殉教者の故郷スペインを訪ねる。そこでは、バスクの首都とも言える大都市の教会が軽侮され、信者が集まらない。そこの信徒だった、びっくりするほど優しい男は忘れられていた。そして、最後に訪ねた小さな町の教会では、なり手が無く、コンゴ人の牧師が支えているありさまだ。そのなかでも、町のほこりである殉教者を忘れない人々がいる。彼はただ、日本のカトリックの歴史を報告しただけのひとだ。しかし、町のほこりだった青年だった。そして、彼が40万人もの日本人信者のために戦い、そして幾人もの同士ともに死んだことに初めて知り、彼らは涙する。そんな宗教とはなにか、日本人になにをカトリックがもたらしたか、人間とは何かを求める旅が記されている。

 

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そんな、時代にあわなくなったカトリックの現実。

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 映画「この世界の片隅に」ものがたることの意味

映画 マンガ

 

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 こうの史代さんを知ったのは、評判の良かった「夕凪の街 桜の国」を立ち読みしたからだ。本屋さんで涙が止まらなくなって、連れて帰りました。私は滅多に涙が出ないので、びっくりした。原爆のはなしで泣いたのではない。特別なはなしではなく、私にもあった失った誰かを悼むはなしだったからだ。特に目に焼きついたのは、ふたつのものがたりにつながる男がたたずむ、川岸の二枚のこまだ。がちゃがちゃした原爆部落のバラックを背にした若々しい青年、そして、何も無い河川敷にたたずむ年老いた男。かつてそこに存在した家々のことも、生活していた女性たちのことも忘れ去られてしまっている。しかし、いかにこの男の人生に、その女性たちは影をおとしていることか。疎開によって原爆をのがれた子供だった彼は、体験していない多くの人々の代表なのだ。体験した人々の特別な体験に押し込められ、いなかったことにされた人々の恨みつらみ慟哭を、ひっそりと彼は聞いていたのだ。それを見ていた私に、かつて、田舎の墓場にある名もなき墓標をみて、彼らがなにかしら私に関係があることに、ぼっーとなってしまった記憶がよみがえってきたのだ。かれらは確かに生きていた。そして、なにかしら、私の人生に関わっている。

 そんな前作を踏まえて、漫画「この世界の片隅に」は身体化したこうの史代自身の呉の記憶から、より深く、かつていた、戦争で傷つき、生き抜いた人々をよみがえらせようとした。だから、漫画の中で日常をあれほどまでに詳細に再現する必要があったのだと思う。映画「この世界の片隅に」は、そんな、こうの史代の試みを、日常のなかにふとあらわれる亡霊を感じる、多くの人々の思いを集めることで傑作となった。なぜならば、アニメーションが絵をえがくという思念で動きを再現すること、そして多くのひとの絵を集めることで成立するジャンルだったからだ。作品のなかで絵を描くすずさんは、心の中にあったものさえ再現しようとする、こうの史代の分身でもある。そして、そんな作者をかたしろに、死者をよみがえらそうとした、とんでもない映画なんである。

 主人公のすずさんが、映画のなかで「のん」さんの声を借りて、みずみずしい体をもつ18の乙女から、成熟した女になっていくことを官能的に描かれていてるのはいいなあ。若い女というものは、母になるうつわであるがため、人類の無意識の希望だ。戦争が壊滅的に呉を破壊し、そして人々の心を歪めていくことと重なっているのは、どんなに死の世界がかたわらにあっても、自然というものは動いていくことを示していて、よかったなと思う。戦争の詳細な描写、壊滅した呉のまちのようす、原爆の広島の夜、残酷で無残な描写も胸がいたい。でも、私が一番に印象に残っているのは、幼いすずさんが原爆で失われてしまった広島の繁華街の雑踏で、道に迷ってぼっと我を忘れているショットだ。なんと、隅っこにいる、か弱く頼りないものであることか。そして、彼女はある夢をみている。それは彼女が出会うであろうひとだ。もしかしたら、それは夫の周作の夢かもしれない。誰かの夢かもしれない。私たちはかつて生きていたひとを想像することができる。そして、それこそが供養で、自分の今生きていることに感謝し、生き抜く糧になることなんだと思い出させてくれる映画だ。

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 原作の感想です。「さんさん録」も好きです。

 

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アン・ブロンテ「アグネス・グレイ」とオースティン

 

ブロンテ姉妹 ポケットマスターピース12 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ Z)

 

 編者の桜庭一樹さんのtwitterに惹かれて、ブロンテ姉妹の末っ子のアン・ブロンテの「アグネス・グレイ」を読んでみた。アンも小説を書いていたのは知っていたが、きちんと紹介されたのは、初めてなんじゃないだろうか。巻末の作品外題でも指摘されているが、同時代のジェーン・オースティンに似て、するどい社会批判がある。特に、「偏見と自負」のあとに描かれて、評判の悪い「マンスフィールド・パーク」に似ていると思う。どちらも最近になって再評価されたのもわかるような気がする。植民地からの富にスポイルされ、モラルが緩んでいる社会に対する疑問として書かれたんだなあと感じた。両方とも福祉にはげむ牧師との結婚という、当時としても面白くない話で終わっているので評判がわるいけれど、お金ではない価値観を求めて描かれたんだと思う。宗教に頼るのは、当時の限界かもしれない。

 貧しい中産階級に生まれて上流階級に養われた主人公ファーニーは作られたヒロインだけど、「アグネス・グレイ」は狭い範囲ながら、上流階級で家庭教師として働いたアンの実体験をそのまま描いたので、とてもリアルだ。そのなかでアンが見ただろう、 お金にスポイルされて、地位があってもろくでなしの男に平気に娘をおいやる愛情のうすい母親の姿、そして、美貌をちやほやされることに流されて、その本質的な辛さに目をつむる娘の哀れさに対するきびしさはなんだかなと思うけれど、本当によく描かれている。不幸な若い娘のアンが、世間の狭さ、生真面目さや妬み嫉みも含めて書いているのも、すごいなって思う。「マンスフィールド・パーク」も親にちゃんと教育されず、本人たちも思い上がってモラルのないことをして、不幸になるわがまま娘たちの末路が描かれているけど、その内面の幼さにまで踏み込んでない。

 当時の社会で跡継ぎになりえない女の子を産んで、夫にないがしろにされた娘の「私が女の子を育てて、なんの喜びを得られのかしら。あの子は私をどんどん越えていくでしょう。私が永久に禁じられた数々の喜びをあの子が楽しむことになるのだから」というセリフはすごいと思った。これは不幸の再生産だろうと思う。アンは貧しいアイルランド人のたたき上げの牧師の家に生まれ、教師というひとを導く仕事をしていたから、観察できたのだろうと思う。同じことをテーマにしても、成功した家に育ったオースティンはいかに勝ち抜くかの知恵の話にはなっても、敗者の救済には思い煩わない。ただただ、悲しみを感じるだけだ。そして、新しい時代の生き方の提案に目が移っていく。エンターテイメントのプロの作家だ。

 アンの小説は次作の「ワイルドフェルホールの住人」のほうが評価が高いらしい。こちらはずばりDVを受けた女性が立ち直っていく話だ。アンがまきこまれた兄の悲惨の人生を反映しているとも言われているけど、救済がテーマなんだろうと思う。主人公が、最後、身分の低い男性を結ばれるというのも面白い。たぶん、アン・ブロンテは未完で終わった才能だけれど、あの当時のインテリ女性が、社会をどう思っていたかのヒントを与えてくれるひとなんだと思う。植民地から搾取したお金で発展した社会とモラルの問題は、今日的な社会の混乱の元になっている話であるな。「ワイルドフェルホールの住人」はドラマにもなっているらしい、ちょっと見てみたい。

 

ワイルドフェル屋敷の人々 アン・ブロンテ原作 [DVD]

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