oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

 映画「この世界の片隅に」ものがたることの意味

 

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 こうの史代さんを知ったのは、評判の良かった「夕凪の街 桜の国」を立ち読みしたからだ。本屋さんで涙が止まらなくなって、連れて帰りました。私は滅多に涙が出ないので、びっくりした。原爆のはなしで泣いたのではない。特別なはなしではなく、私にもあった失った誰かを悼むはなしだったからだ。特に目に焼きついたのは、ふたつのものがたりにつながる男がたたずむ、川岸の二枚のこまだ。がちゃがちゃした原爆部落のバラックを背にした若々しい青年、そして、何も無い河川敷にたたずむ年老いた男。かつてそこに存在した家々のことも、生活していた女性たちのことも忘れ去られてしまっている。しかし、いかにこの男の人生に、その女性たちは影をおとしていることか。疎開によって原爆をのがれた子供だった彼は、体験していない多くの人々の代表なのだ。体験した人々の特別な体験に押し込められ、いなかったことにされた人々の恨みつらみ慟哭を、ひっそりと彼は聞いていたのだ。それを見ていた私に、かつて、田舎の墓場にある名もなき墓標をみて、彼らがなにかしら私に関係があることに、ぼっーとなってしまった記憶がよみがえってきたのだ。かれらは確かに生きていた。そして、なにかしら、私の人生に関わっている。

 そんな前作を踏まえて、漫画「この世界の片隅に」は身体化したこうの史代自身の呉の記憶から、より深く、かつていた、戦争で傷つき、生き抜いた人々をよみがえらせようとした。だから、漫画の中で日常をあれほどまでに詳細に再現する必要があったのだと思う。映画「この世界の片隅に」は、そんな、こうの史代の試みを、日常のなかにふとあらわれる亡霊を感じる、多くの人々の思いを集めることで傑作となった。なぜならば、アニメーションが絵をえがくという思念で動きを再現すること、そして多くのひとの絵を集めることで成立するジャンルだったからだ。作品のなかで絵を描くすずさんは、心の中にあったものさえ再現しようとする、こうの史代の分身でもある。そして、そんな作者をかたしろに、死者をよみがえらそうとした、とんでもない映画なんである。

 主人公のすずさんが、映画のなかで「のん」さんの声を借りて、みずみずしい体をもつ18の乙女から、成熟した女になっていくことを官能的に描かれていてるのはいいなあ。若い女というものは、母になるうつわであるがため、人類の無意識の希望だ。戦争が壊滅的に呉を破壊し、そして人々の心を歪めていくことと重なっているのは、どんなに死の世界がかたわらにあっても、自然というものは動いていくことを示していて、よかったなと思う。戦争の詳細な描写、壊滅した呉のまちのようす、原爆の広島の夜、残酷で無残な描写も胸がいたい。でも、私が一番に印象に残っているのは、幼いすずさんが原爆で失われてしまった広島の繁華街の雑踏で、道に迷ってぼっと我を忘れているショットだ。なんと、隅っこにいる、か弱く頼りないものであることか。そして、彼女はある夢をみている。それは彼女が出会うであろうひとだ。もしかしたら、それは夫の周作の夢かもしれない。誰かの夢かもしれない。私たちはかつて生きていたひとを想像することができる。そして、それこそが供養で、自分の今生きていることに感謝し、生き抜く糧になることなんだと思い出させてくれる映画だ。

konosekai.jp

 原作の感想です。「さんさん録」も好きです。

 

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