oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

田辺聖子を改めて読む2

 短編集「感情旅行センチメンタルジャーニー」を始めて読んだ。その中で驚いたのは戦争体験からくる虚無感と怒りの感情の強さだった。たぶん、女性目線では生々しくて書けなかったのだろう、男性が主人公の短編集だ。最後の「玉島にて」が唯一、女性が主人公だけど、私小説的なものだ。初期のものなのでバラエティがある。

 「感情旅行」は、60年代前半に書かれた。生きていた時代なので、かろうじて実感できるけど、舗装されていない道の土埃のにおいが浮かんでくるような映像的な文章だ。ずっと思っていたけど、そこが田辺さんの文章のよさなのですね。この本では、その当時の貧困のさまをありありと思い出した。クーラーのない暑さや夜のいかがわしさ。主人公の恋敵の共産党にかぶれていたりする男も実感がある。といういか、父の兄がかつて共産党員で女たらしだった。さっさとやめて快楽主義者になった。彼が、海でカキやらアワビやらを仲間と密漁しにいくことを自慢するのいやだったな。この小説の男は忘れたように家庭におさまってしまう。そうゆう人も多かったろうな。この本を読んで、叔父のその背景にある虚無にやっと気づいた。そういえば、あの兄弟たちは十代、学徒動員で、田辺聖子と同じように大阪市内の工場に行ってたはずだけど、うまく言語化できないようだった。

 表題作はそのごちゃごちゃの感情を無頼な男女の恋愛に落とし込もうとした小説だ。あきらかに織田作之助林芙美子の戦後を描いた小説の方向性のさきをめざしたものだと思う。その後のエッセイで読んだけど、東京に出てこの方向性で進むと、いい作品はかけたかもしれないけど、その感受性と観察眼で増幅した怒りで自分をも傷つけていたんじゃないかな。

 最後の本人をモデルにしていた「玉島にて」は、朝ドラとかの映像作品での田辺写真館の楽しさの裏側をえがいていてどきっとした。あれは、没落した実家をもつ母の犠牲のうえにきずかれた楽しさだったのですね。成功した祖父の横暴さ、父のちゃらんぽらんなひ弱さが遠慮なくあばかれてますな。作家になった主人公と母は、戦後直後たよった岡山県玉島に行く。その一瞬は輝かしい美しさだった。しかし、親族も亡くなり縁とおくなった母の故郷は薄汚くそっけない。戦後の生活苦に疲れ果て、人への不信感をかかえた主人公は考えよどむ。しかし、これからは光のある暖かいほうへと願う。田辺聖子の小説は80年代にはガラッと軽妙に変わる。写実性はクリスタルボンボンや貝殻の石鹸といったぜいたくのあざやかな色彩を写す。それは時代に寄り添ったんだと思う。母が言ってて忘れられないことだけど、60年代は前半と後半はまるで違うと。これは多くの人が感じていたんじゃないかな。

 田辺聖子の作品に一貫しているのは、社会がふくむ暴力が弱いもの、かよわいものを踏みにじることに対する怒りだ。それは人間の獣性への好ましさとあきらめとを含んでいるような。それを古典と恋愛で読み解こうとした作家さんだと思う。そして、関西弁にこだわり身近な大阪の人たちを描いた。学校の回覧文集ではじまった、そういった人とのやりとりの個人性を大事にした作家さんだと思う。それがうたたかな抵抗であることを本人も自覚しててひっそりと去られたかもしれない。

 

感傷旅行 (角川文庫)

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