oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

映画「ライオン」子供ってなんだろうな。

f:id:oohaman5656:20170417092216j:plain

 迷子になったインド人のおさない子供がオーストラリア人の養子になってというお話です。 「子供って?」って問いかけの答えが明確な、わかりやすい映画です。

 主人公は母子家庭の子なんですが、いいお兄ちゃんもいるしで、幸せでした。しかし、貧しくてつらい。それで迷子になってしまって、施設に送られるのですが、いや、ひどい大人が多い。つけこんで、子供をおもちゃにする奴が多い。でも、助けたいという人から、養子の話が来て、オーストラリア人に救われてということなのですが、自分だけ豊かな生活をしてることに申し訳なくて病んでしまうんです。そんな彼が親兄弟をさがしに、インドに旅立ちます。

 養子になる前の子供時代のインドの様子がいいです。兄弟の生き生きとした生活の様子、路上での、施設での子供たちの姿、子役たちの熱演もですが、大人たちの演技もいい。協力しているインドは映画大国なんだなとしみじみ。大自然をふくめた映像がすばらしく、こういった素材を、エンターテイメントとしてきちんと作っている映画です。

  しかし、インドには8万人の行方不明の子供がいるのだな。色々な原因があるでしょうが、貧しさや社会のひずみで、希望がなくて、つらい人が多いということでしょう。かつての日本もそうだったんですよ。歴史を読むと、江戸時代なんか、誘拐、児童労働なんて、当たり前だったのがわかります。それを時間をかけて変えていったのです。それは住んでいるところを変えないで待っていた、主人公の母のような人がたくさんいたからでしょう。

 しかし、応急措置も大切だ。そこで、子供を助けるのはつらいこともあるし、たいへんだけど、大切なことなんだよということです。それを養母をニコール・キッドマンが演じているのが、重しになってます。現実に養子を育ててる人です。この養母なるひとも子供時代が大変で、希望をなくしていたのですね。社会っというものが、色々とあると、自分が死んだ後なんかどうでもいいから、生きづらいから、未来のある子供をいじめることで、憂さ晴らしてる大人って、どうしても出てくるのです。日本の保育園の騒音に病的に反対するひとなんかも、潜在的には、そうかもしれないです。でも、こういう生き方もあるよ、希望をもてるよという、問いかけがあるのです。映画「スラムドックミリオネア」の子が立派な大人の役者になって主演しているのも、そんな希望のありかを示していて心強いです。

 ラスト、汽車の上に飛び乗った、主人公の兄の輝かしいショットで終わります。子供を愛することの意味が、言葉でなく、感情に、ダイレクトに心に刺さってきて、いい終わりだなあと感じました。それは主人公が、オーストラリアで生き残った意味も、暗示しているのですね。

gaga.ne.jp

 

 

 

 

 

映画に知識は必要か

  映画「浮雲」のブログを書いていたとき、森雅之の父の有島武郎について書こうか迷ってしまった。略歴の確認でネットを見て、不意に思い出したからだ。私は、ずっと、かつて読んだ、有島武郎の童話「一房の葡萄」がひっかかっていた。すごくロマンチックだけど、不気味な情念を感じる話だった。この話は森雅之をふくめ、息子たちに捧げられた話らしい。「浮雲」はたぐいまれなる森雅之の演技力に支えられた映画だと思う。しかし、なぜ、父を心中で失った彼が、演技という生身のからだをさらす仕事をえらんだのか。童話と絡めてぼんやりと感じたのだ。でも、演技のすごさに感動したことが、ぼやけるんじゃないかと思って、書かなかった。

 このことを書きたいと思ったのは、多分、私が映画を考えるヒントと思っているからだと思う。より深く考えたい。このブログを書いていることもそうかもしれない。そういう意味では、映画に知識は必要だ。人間は自分の体験したことにとりとめない感想を持つ。そのとき、森の不気味な男の演技は、彼の愛に対する複雑な感情からきてるんじゃないかと思う。思い込みかもしれないけれど、そういったことを考えるのは楽しいのだ。知らなくてもいいけど、あの迫力はどこから来るか知りたくなる。

 しかし、多くの人に共感をあたえる映画は、求める心があれば、わかってしまうんだと思う。子どもの頃、ビスコンティの「山猫」をなんども見た。絢爛豪華なパーティシーンが綺麗だったからだ。アラン・ドロンは最高の美男子のひとりだと思う。しかし、基本的には、彼はきらいだし、ビスコンティぴんとこない。しかしですよ、このわかりやすい、時代が変わっていくことの悲しみを共有できる映画を残すことが、最高の監督の条件かなっと思う。たいがいの記憶に残る映画を残す監督は、一本は、開く窓を持ってるんだなとつくづく思う。あのパゾリーニもキリストの受難をえがいた「奇跡の丘」という大ヒット作があるというではありませんか。大衆的なものとは、心の窓なのだろうと思う。そこから先の部屋を知ることは自分次第だ。しかし、気に入ったなら、知識をもって、色々と感じることもありだと思う。しかし、それは、あくまでも個人的な幸せだあるのがいいのだ。 無垢なこどものように体験したいと思う。しかし、何か知ることの深さも良いもんだなと思う。それは生きて行くとつく垢も愛しいと思うようなもんかもしれない。

  

f:id:oohaman5656:20170405064908j:plain

  もう一つの代表作、雨月物語、こちらではひたすらに弱くおろかなおとこを演じていて面白いです。

 

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

 

 

映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人 事件」ざわざわする思い

 


『牯嶺街クーリンチェ少年殺人事件』予告

 

 めったにないことですけど、台湾の映画、エドワード・ヤン監督の「ヤンヤン 夏の思い出」のレンタル料を滞納してしまって一万円になったということがありました。内容はぼんやりしていて、イッセー尾形が面白かったなあと覚えています。そんな気持ちをざわざわさせるヤン監督の代表作  「クーリンチェ少年殺人事件」をやっと見ることができました。版権がややこしかったりでレンタルもなかったなか、スコセッシがお気に入りで、デジタル化して美しくしてくれたみたいです。 感謝です。

 まず、冒頭の背丈の不揃いの中学生が、夜の学校でぞやぞや群れているすがたにグッときました。そうだったよなあ、この年齢の子たちはそれぞれに発育が違ってきて辛いのだなあ。お互いの能力のちがいもわかってくるしね。主役の少年を演じる、今はアジアを代表するスター、張震の足の長さ、肢体の美しさは際立ってますね。ヒロインの女の子もどうしようもなく性的な魅力をはなっています。ちょっと、若い頃の大竹しのぶを思い出します。魅力的な子であることは、彼らが主役だからじゃないんです。そういったふぞろいななかで飛び出した、大人の手に負えない子たちの悲劇をリアルに描くためなんだと思います。

 暗闇のなか、背が低くて子供っぽい小猫王とあだ名される子がけんかで暴力をふるえなくて、他の子がそれをあざ笑って使うことから始まるのが、暴力と性は同質にあることを象徴しています。むせかえるような湿気が感じられる台湾の夜、人間が動物として解き放たれる、そんな夜の光景です。そういう、性の魅力と社会とのギクシャクがこの年代の辛さだなと思います。そんな、あまたあるこの時期の悲劇を真っ正面から描くのって勇気がいります。まして、その背景にある社会の中の理不尽までも、えがくことは簡単じゃない。

f:id:oohaman5656:20170330180716j:plain

 思い出したのは、最近起こった川崎の少年殺人事件です。中原中也の詩のフレーズ「よごれちまった悲しみに」ではないですが、テレビやなにかに、もみくちゃしされて、ひとは本質的な問題に目をそらしてしまいます。やはり、それは表現という曖昧模糊なものでしか、語れないのではないでしょうか。

 しかし、1960代の台湾には暴力がそこらへんに転がっていたのだなあ。戦後、捨てられたであろう占領期の日本家屋に隠された刀、そして頻繁に道を通る戦車、銃。暴力がそこそこに転がっています。台湾は中国本土から国民党系の人たちが入ってきて、対立がひどかったのだな。そのなかで、中国から来た国民党系の両親の迷走ぶりは痛ましいです。そういう時代、そういう場所では、ダメな大人たちはこどもたちの変化を支えきれない。 

 古くからある中国系のコミュニティをめざして、アメリカに行くということに強いあこがれがあったのですね。かつて、台湾人のひととお仕事したとき、テレサ・テンとか聞くんですかって聞いて、えらくしかられました。私はかつてビートルズファンだ、あんな古臭い音楽は聞かないっと言ってました。この映画のなかで、ずっと、甘いプレスリーが流れていました。きっと、台湾の街のほうがずっと洋楽がただよっていたのだな。60年代はみんなそんなに洋楽聞いてなかったよ、日本では。彼女は日本はこどものざわめく声やひとたちのにぎやかな話声がしなくて寂しいと言っていましたが、みなが台湾に惹かれるのはそういって人間の気配がまだあるからでしょう。

 プレスリーを裏声で歌う小猫王は大人を夢見る少年です。彼のこだわるエロ本、プレスリー、その只中の子は、もうそんなもの興味がないのです。まして、その闇にはまってしまった少年に会いに行くのは、まだ、夢見ている彼だけです。

 この映画は日本映画にも影響与えてるなあと思います。というか、エドワード・ヤン自体も日本映画の影響を受けてるんでしょうけど。十代をえがいた秀作、北野武の「キッズリターン」、「桐島部活やめるってよ」、そして、是枝監督の「誰も知らない」日本映画はこどもを描く伝統があります。そのなかでも、中学生の性と暴力、そのことはかつて、未開の社会では、人間にとって美しいことだったわけでもありますが。そしてその背景にある社会の矛盾。なまなかな気持ちと力量で描けるわけじゃないです。

 親や先生、ダメな大人ばかりでてきますが、不良の若者のボスの女である、少女の親族の女性が少女を抱きしめるしぐさ、事件に巻き込まれる少年少女を痛ましく思う若い警官のまなざし、ちょっとしたシーンですが、ほのかな救いがあります。闇の中に光る懐中電灯のひかり、笑いを誘う学校のお隣の撮影所の滑稽さ、子供たちのかなでる吹奏楽、かつて日本人街だった場所のふすまのある室内のたたずまい、そして、南国の台湾の雨のつややかさ。なんとも言えない、美しい光景が点在します。そして、容赦しない暴力の描写。自然の豊かさの中で人間たちのおろかさが繰り広げられるそんな映画です。

www.bitters.co.jp

 四月も都内でちょこちょこ上映されてるみたいです。長いけど見ごたえあります。なんだか、彼らと同じ、十代のざわざわした感覚がよみがえってきます。子供たちの春から夏への変化を描いたこの映画、とりとめない感想になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


www.bitters.co.jp

不幸とか幸せとか 成瀬巳喜男「浮雲」

 TOHOシネマズに「午後十時の映画祭」という古い映画を紹介する企画があり、成瀬巳喜男の「浮雲」見てきました。「浮雲」はNHKでDVDで録画していても、どうにも見られなかった映画です。男女のドロドロって苦手なんです。しかし、デジタルリマスターなんだしと、改めて見てみました。いわゆるメロドラマです。戦争中、植民地の森林関係の仕事をしていた、妻持ちの女たらしのダメ男に、戦後の貧困期、ヒロインは振り回される話です。そして、いろいろあって、逃亡先の屋久島で、男の仕事中、たったひとりで、病によってつまらない死に方します。映画は美しい死顔で説明なく終わりますが、林芙美子の原作は、モノローグがあって、ダメ男の死んでくれてほっとしたという、感慨で終わるようです。そのあたりも成瀬巳喜男は、しっかり、ほのめかしていたように思えたのが、考えすぎだろうか。病人の世話をする島の女、浦辺粂子が演じているのですが、妙に色っぽい。わざわざ、当時むずかしかった所属映画会社をこえて、出演してもらっているのですね。晩年に、おばあさんになった彼女を知っている人少なくなったけど、元不良です。だから、女の人に寄っかかってしか生きていけない男は、その後、どうなるかなんとなく感じられような気がします。

 男を演じている森雅之は、甘えが感じられる、疲れた中年男です。名演技もありましょうが、このあたりもリアル。やさぐれてるんです。略歴によると、いろいろと女性とあったようです。そして、ヒロインの高峰秀子も、原作の林芙美子、脚本の水木洋子、そして、監督も、いろいろ男女のくるしみで、泥だらけになった経験があるみたいなのです。ひとのダメなところを知り尽くした人たちの映画です。そして、そこにある、どうしもようない愛を語った映画だと思います。私はあまちゃんなんで、若いときは、もうひとつ、わからなかっただろうなあ。

 この映画は、そんな男女のあれこれを、みじめに、しかし、美しく描いています。ヒロインの高峰秀子が、ともかく、美しく撮られていて、どんなにひどい境遇でもきれい。そして、性愛の世界にもしっかり踏み込んで、男が若い女によろめくありさま、しかし別れられない様子なんかいいですね。脚本の水木洋子が、なんでこの人たちが別れないですかと聞かれたとき、セックスがよかったからでしょって言い放ったようですが、そこのあたりが細かい。最近の日本映画にはないなあ。アメリカ映画あたりでは、しっかり、そういう大人の大作映画があるのですが。当時の荒廃した東京の風景、屋久島の風景、豪華な配役、風格があります。お客さん、結構たくさんはいったろうな。そんななかで、ヒロインのみじめな死は、愛に生ききった満足感さえ感じさせられるのです。なんというか、面白いよ。今見ても、それなりに満足できる映画だし、その後に影響を与えた映画だと思います。

 「午後十時の映画祭」三月の最後の二週間は、この映画とメリル・ストーリプ主演の「愛と哀しみの果て」を上映するみたいです。彼女に、トランプにたてついた貫禄のある女優さんというイメージしかないかたはどうぞ。代表作です。「バベットの晩餐会」の原作者の作家さんの若いころを描いた名作で、かなり社会的な映画のようですよ。かつて、上映されたとき宣伝がむちゃむちゃだったので、私は見逃しましたが。「午後十時の映画祭」は、古典をきちんとを見たいとき、いいです。しかし、いつ行っても、平均年齢70才ぐらいってどうなんだろうか。若い人でも必要な人いると思うんだけど、ただ、だらーと映画を流しているだけではつまらないです。なんかもう少し活気がでる、いい方法がないだろうか。大画面で見る映画館ならではの楽しみもあります。

 

 

浮雲 [DVD]

浮雲 [DVD]

 

 

 

 

世は移りゆく「買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて」  山内マリコ

 先日、沖縄に行ってきました。12月ごろから、沈みきっていて、お正月準備もままならない。で、旅行でもいこうかと、格安チケットで予約してガイドブックを読んでみたもの、全然のらないどうしようかとと思っていた前日、この本を読みました。そのなかで那覇の壺屋やむちん通りで陶器を買ったことが書かれており、やっと楽しむ欲がでてきました。本の通り、若い作家さんのしゃれた感覚の陶器があり、店員さんも親切、一日中いたいぐらいでした。作家ものの小皿を4枚買い大満足。もちろん、ガイドブックにも書かれていたのだけど、観光地の陶器ってがっかりすることが多かったので素通りしていたのです。おもちゃみたいなのだったり、ひとりよがりだったり。この本は身銭でお買い物して、ものの良さを描いていて、お買い物のたのしさを改めて思い起こさせてくれました。ロンシャンのバック、私でさえ古くておばば臭いと思っていたけど、欲しくなりました。

 まえがきによると、かつての文春の人気エッセイ、中村うさぎの「ショッピングの女王」のようなものをと、頼まれて書かれたようです。「ショッピングの女王」面白かったです。ただ、あれは買い物依存症の赤裸々な記録で、お買い物が嫌になる話です。そうでない人もいるかもしれないけど。買い物依存症は、世界のかつての貧困が背景にある。手芸品を売るお店で店員してたとき、しみじみ患者さんを相手にしてて思ったなあ。話はそれますが、中村うさぎラノベ極道くん漫遊記」、子供たちがアニメで見てて、手に取りました。なかなかに面白かったですよ。私より少し上の世代ですけど、感じるところがあって、いくつか読みました。この作者にも通づるところがあると思います。この本で、山内マリコさんの世代の金銭感覚というものは、だいぶ私たちと違うんだなと思いました。中村うさぎはお金を払うことの目的を所有といい、山内マリコさんの本はブランドへの応援として払うとあり、時代の価値観が随分と変わったなあと思いました。

 ほかに面白いなあと思ったのは、本のなかで源氏鶏太獅子文六への敬愛を示していることです。かつての流行作家という、そういうものを目指しているのだなあと思いました。獅子文六のちくまでの復刊本、私も読んでいて当時の風俗、商品がしっかりと書き込まれているけど、古びないエンタテイメント性に感動しました。しっかり商品とか調べたもん。作者は「コーヒーと恋愛」が気に入ったようですが、何度も用事で新幹線に乗る羽目になった私は、今も変わらない東海道線の景色の描写に感動して、鉄道ものの「七時間半」がお気に入りです。ちくまで源氏鶏太も復刊されてるようですが、私の子供の時、まだ、たくさん、本屋さんに文庫本で並んでいました。その本屋さんは、同級生のお父さんが経営していたので、感想、聞いてみたかったです。

 

買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて (文春文庫)

買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて (文春文庫)

 

 

   この本のことは、新作「あのこは貴族」という東京の富裕層に取材して描いた小説のプロモートで知りました。なるほど、ふたりの作家さんを意識してますね。都会のハイカラで裕福な生活を描いた作家さんたちです。それだけでは、この本を手に取らなかったのですけど、気になっていた郊外生活、地方の県庁所在地の憂鬱を描いたと聞いている「ここは退屈迎えに来て」の作者でもあることを知り、手に取ってみました。彼女は一筋縄ではいかない。小説、読んでみます。

 

あのこは貴族

あのこは貴族

 

 

 

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 

ささやかだけど大切なこと

 10日ほど前に、私の「映画館に行こう」というお題のブログが紹介されていて、1年前ほど前の隅っこの記事を、よくぞ紹介してくれたなあと感謝しています。映画を見る若い人たちに、ぜひぜひ感じ取ってもらいたいことだったので、うれしいです。

hatenanews.com

 この記事には、映画館の中のひとの思い、地方の映画館に出かけた体験、海外の映画館で感じたことを紹介したブログもあるので、どうぞ、旅の時間のひとつに映画館を体験してほしいです。映画館で映画を見る楽しみのひとつは、お客さんを見ること、そしてその土地の風土を見ることだと思ってます。なにが流行っているか、どんな風な文化なんかの普段着のすがたが見れます。それに目的があるので、いちげんさんが入りやすいですし。映画館はひとりになれるけれど、ひとりでない空間として貴重なものです。

 私は海外ではインドの映画館に行ってみたかったです。かつては男女別れてだったりするので、たいへんそうでしたが、人声が絶えない娯楽のしての原点があったような気がします。地方では、くまモン小山薫堂の故郷、天草の映画館なんか行きたいなあと思います。ドキュメンタリーのなか、安西水丸さんと来訪した映画館は映画愛と郷土愛が強く感じられてよかったです。

 そういえば、奥さんのお掃除で暇になった村上春樹が、年末を新宿歌舞伎町の映画館で過ごすエッセイがすごく好きです。あの、孤独だけど、ゆるやかな自由な年末の感じこそ、映画を取り巻く空気感だなあと思います。映画館では多様な自分に出会えます。多様な自分って、どこかいろんな人と共感できる自分なんだと、自分を好きになれる。こんな恋愛はしたことがないけど、それが気にいる自分。運動神経ばつぐんではないけど、その空間が体験できたりもします。とにかくに自分から少しはみ出してみる、そんな体験のために映画館を思い出してくださいね。

生身の人間がいる。映画「沈黙」

映画チラシ 沈黙 サイレンス アンドリュー・ガーフィールド

 昨日、映画「沈黙」を見てきた。若いとき、感銘をうけた小説だ。何年か前、修道士を志したマーティン・スコセッシが映画化すると聞き、面白いなあと思ってずっと待っていた。ちなみにスコセッシの映画は「タクシードライバー」と「ギャング・オブ・ニューヨーク」しか見ていない。ファンとはいえないなあ。しかし、歴史への興味が似てるんだろう。後者は、今は絶版になってる原作をがっつり読み込みました。後から来た移民が居場所を求めて、手段をえらばず闘い取っていくはなしだ。そのなかで描かれた、ニューヨークの貧民街の最下層のアイルランド系と黒人が混血して、白い人が白人として、黒い人が黒人として生きていった歴史は驚きだった。その本しか読んでないので異説もあるだろうけど、アメリカの人種間の問題の根深さなんだろうと思う。アメリカの黒人はアメリカ人なんだ。二度目に映画をみたとき、アイルランド系の敵役と娼婦を演じる黒人の目鼻立ちの白い女優さんたちの絡みがカラバッジョみたいだと思った。善悪を超えた人間の業の輝きというものだろうか、美しかった。映像で歴史を語るってこういうことだなと思った。ちなみにヒロインにキャメロン・ディアスが出ているけど、名前が示すようにヒスパニック系の白いひとなのだ。そういった人々の手段を選ばない戦い、生き残ることの切なさ、無残さが「沈黙」に通づるものかなと思う。生身の人間の尊厳があるから、そんなはなしも輝くのだ。

 「沈黙」は母が信じたキリスト教がどうにも合わないと感じた遠藤が、その布教の問題点をさぐった小説だ。その問題をスコセッシは、映像で物語る。なぜ、かつてキリスト教が定着しなかったか。そこには宣教師たちの無意識にある教化するというエリート意識の思い上がりがある。だから、まず、彼らと同じような支配層であったインテリ層に布教された。しかし、日本には強固なもともとの宗教観がある。そんな内面を見下されたことに、嫌悪感を抱いた彼らにしたたかに逆襲された。それは実はすでにヨーロッパで、アジアで、南米で問題になっていたことだった。なぜ少年たちが遣欧使節に選ばれたか。それは純粋無垢な子供扱いされた蛮族の象徴だったからだと思う。蛮族だからなにかを奪ってもいい。映画で浅野忠信演じる通詞が、捕まえた主人公の宣教師を「傲慢なやろうだ」と吐き捨てるのは印象的だ。しかし、病や貧しさから救いを求めて、心を差し出した人々は既成の社会への無言の批判者だ。それも彼らには腹たっただろうな。

 そんな善悪とか正しさとかでは割り切れない人間の生の感情をえがいた原作をスコセッシは映像のちからで美しく描いてくれた。拷問のシーンでさえ美しい。人間の命の輝きだ。塚本晋也演じるモキチの姿の神々しさよ。霧にむせぶ情緒的な映像。圧倒的な自然、厳密な時代考証、そして的確な演技指導。日本の映画界でも居場所が定まらなくなったナイーブさを持つ、窪塚洋介のキチジローはいい。キチジローは相変わらず強さや優秀さに優劣をつけて信者に求めたキリスト教に苦しんだ遠藤周作の影の自画像だと思う。卑怯でしたたかでなさけなく、そして依存的な。善悪とか裁くことよりも、あったこと、為したこと、そして内面に抱いているものが大切なんかもしれんなと思わせる映画だと感じた。

 

 追記したいことがあります。

 若いとき、キリスト教に憧れの先輩から誘われ、断ったら記憶が落ちるほどの暴言を吐かれたことがあります。しかし、今考えると彼女よりよほど辛い人生を過ごしてたと思う。彼女の実際は知らないですけど。でも確かに私は、苦労に甘えたいやなやつだったです。それを踏まえて生き続けるって悪くないです。それゆえ、「沈黙」は大切な本です。

chinmoku.jp

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

 

 

oohaman5656.hatenablog.com