oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

いっしょ過ごした「少年の名はジルベール」

 私が中学時代、大好きだった萩尾望都先生が竹宮惠子先生いっしょに共同生活をしていたのを知ったのは、ずっと後になってからだ。一年ぐらい前から 、漫画家をめざして上京し、「風と木の詩」を書かれたいきさつを書いたこの本を読めずにいた。そして、そのころのことを色々と思い出してた。中学のとき、私が漫画を好きなのを聞きつけてともだちになってくれたひとがいた。彼女が大好きだったのが竹宮先生だった。ふたりで「サンルームにて」を読んで、いつ、このジルベールという少年が主人公の漫画が描かれるのか、興奮して語り合ったものだ。「サンルーム」初めて知った言葉だ。ガラス張りの離れ家のことですね。おフランスのすてきなこと風俗が描かれ、背徳的でわくわくした。学校のなかで他に読んでいたひとはいたのかな。大概は、マーガレットとか、読んでいたのかな。友達の少ない私たちは気がつかなかった。この本を読むと、ファンレターを書いた人も少なくなかったらしい。いっしょに言葉を持って、先生たちを応援していたひとがたくさんいたのだ。おなじ中学生でも、ずいぶん違う。私たちはいろんな意味で差別される境遇だったので、自己肯定感が低かった。やさしくされることを期待して、手紙を書くことを思いつきもしなかった。しかし、そういった私たちに強い励ましをくれる人たちであったのだ。

 この本では、徳島から上京した竹宮先生が増山法恵さんという友だちと出会い、彼女を通して、すごい才能の持ち主である萩尾先生と共同生活をすることになり、そして、ふたりで学び合う二年ほどの際月が描かれる。そうか、私が、初めて出会った「空がすき」のころだったんだとと知った。「空がすき」は楽しかった。当たり前だ。「シュルブールの傘」を始め、フレンチミュージカルを徹底的に研究して書かれてたのだ。その後、「アラベスク」の山岸涼子先生を加えて、シベリア鉄道を経ての長期のヨーロッパ取材旅行に行ったこと。そして、萩尾先生へのしっとに苛まれ、決別する日々が描かれている。

 あのころ、ふたりは、はたち過ぎたくらいだったのか。しかし、あの年代のひとは母親になるひとが、ほとんどだったからだろうか、覚悟が違う。漫画で革命を起こそうと理想をかかげていたのだな。そのための猛勉強はすごいな。映画の脚本のしくみがわかり、教養がある増山さんが、すごいと驚いたようだが、こんなひと、今の日本でもそうはいない。おふたりも元々、相当な知識と教養がある。女性が絵で食べていくということが成立しているのは、日本の漫画ぐらいではないだろうか。そのころ読者としてすごせたのに身震いする。

 意外だったのは、そのころもアンケートがあって、竹宮先生が一度も一位になったことがなかったことだ。少女コミックのなかで輝いていて、みんな、ふたりが読みたくて、読んでいたのではないのかな。もちろん、「ロリィの青春」の上原きみ子先生の作品も好きだったが、いささか、子供っぽかった。こう書いていると、アンケートにも気付かず、旅行記を流し読みしていた、私にびっくりする。相当、混乱していたのだな。確か、一ヶ月ほど学校を休んだこともあった。連載された、「ファラオの墓」はしっかり覚えているし、萩尾望都先生が影響を受けた手塚治先生の漫画を求めて、最後の古本やに出入りして、白土三平忍者武芸帳も読んでいたのは覚えているが。確か、萩尾望都先生に、とんでもないファンレターを送ったことがあった。投函したあと、届かないことを祈った。

 しかし、そんな、私にも、おふたりのメッセージは届いたし、友だちを得ることができた。内心は、その境遇をバカにしてなかなか打ち解けない、ひねくれ者の私のよくぞ友だちになってくれたと思う。ご両親が信じる宗教系の進学高に入って縁が薄くなった彼女に、最後にあったのは、人混みの中の十三駅のホームの向かい側だった。障害のあるひとたちを引き連れてのジャージ姿だった。にごりのない笑顔を向けてくれる彼女に対して、女子大生だった私はうつむいていたのが、情けなく辛い思い出だ。なぜか、名前も忘れてしまった彼女のことが忘れられない。私をいじめてた、その後、16で子供を産んだ少女のなまえはしっかりと覚えているのに。

 

 

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール

 

 

 

忘れたことの忘れられないこと 波津彬子「玉藻前」

 波津彬子、漫画文庫で「玉藻前」か、ふむふむ面白そう、なんかすごく読みたい、なぜだろう。そこで、はたっと思い浮かんだんですね。それは子供のとき、何度もテレビでみたアニメで、 ヒロインが「玉藻前」というのがあったのですね。悪に染まったヒロインが改心せず、主人公の片思いで終わるという話でした。悪を為す人はある地点で引き返せない。心が冷めたら、ひとはもどってこない。そして、報われない愛に殉じる主人公のけなげさ、つらい話でした。SNSで調べてみると、「九尾の狐と飛丸」という題で、どうやら原作がおなじ岡本綺堂らしい。昔だったら、なんだかムズムズするということでおわり、わからなかったかもしれませんね。

 もともと、「玉藻前」の話は 保元、平治の乱が、鳥羽天皇の女性関係が原因のひとつだったのと、そのころ発見された那須温泉の毒である硫化水素のでる泉源にある、大きな石「殺生石」との話を結びつけた説話だったようなんですね。インドの悪女や殷の妲己の生まれ変わりである玉藻前が、鳥羽天皇をたぶらかすはなしで、僧侶が作った話っぽいですね。

 漫画の解説によると、岡本綺堂は、「玉藻前」をフランスの古典的な吸血鬼小説、「クラリモント」と結びつけたらしい。修道士とその師匠と吸血鬼のはなしだそうです。どうやら、性的な堕落と戦うはなしのようです。なんというかミソジニーっぽいです。岡本綺堂はその二つのはなしを大胆にも若い男女の悲恋ものに構成しています。だから、鳥羽天皇に会う前にはなしは終わってしまう。若い男女の死とエロスのはなしですね。

 しかし、この話をアニメ化しようとよく思ったなあ。子供向きではない。大映系のアニメ会社若尾文子の映画をとっていた増村保造が関係してたようです。だからかな、悪女に翻弄される男の純情のはなしなのは。ちょっとナルシステックだった。

 ところで、ほぼ忠実に再現された漫画では、玉藻前は悪に支配された女でありながら、主人公に心を寄せ、誘惑しようとします。悪女でありながら、純情なのですね。アニメと原作どちらが正しいというわけではない。どちらもありで面白いです。

師匠がねちこく説得する、それに応じて、主人公はヒロインを追い詰める。同性愛的な感情もえがいていて、複雑です。女性に対する恐怖に対しての、男社会の誘惑といったところでしょうか。これは、アニメでは、さすがに省略されていて、師匠は影が薄いです。純情な乙女のなかにあった悪のこころ、それが何かしらの邪悪なものに操られてることになっていても、それは彼女の意思でしょう。それでも、主人公は彼女に殉じます。

 波津彬子さんの「玉藻前」はそんな救い難きと戦う愛についての物語を、流麗な絵とたくみな構成で見せてくれます。堪能しました。そして、悪とはなにか、欲望とは、救いとは、一筋縄ではいかない作家、岡本綺堂のせかいに導いてくれます。

 

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

 

 アニメについてはこちらのサイトのコラムで知りました。元々はやはり、実写の企画で、スタッフは、横溝正史ドラマ「悪魔が来りて笛をふく」を作ったひとやガンダムに関係したひと、アニメ「どろろ」なんかのひとだったようです。

eiganokuni.com

 

善意こそがひとをそこなう「みんな彗星をみていた」

  遠藤周作の「沈黙」は私の好きな小説のひとつだけれど、いまいち背景がわからなかった。そういった悶々に答えてくれたのが、星野博美さんのノンフィクション「みんな彗星を見ていた」だ。このなかで星野さんがカトリックの世界への宣教は最古のグローバル企業で、マグドナルドみたいなものらしいと書いている。読んでて、彼女のインタビューにもあるが、どうやら、今、世界は、そのころの罪悪の清算をしているということにしみじみ共感した。そこにある、善をなそうとすることに、ひとは追い詰められるのだ。

 日本布教の頃、ヨーロッパではカトリックが、科学の発展や新しい新教、そして新大陸の富による腐敗で追い詰められていた。そこで、折しも始まった大航海時代、新しい土地、東洋への布教が決心されたらしい。そして、選りすぐりの優秀な人たち、家柄もいい、街の誇りのような若者が、宣教師として、各地に送られた。海を乗り越え、苦難を制した、筋金入りの人たちだ。そこへ既成の宗教に飽き足らない、心病んだ戦国時代の日本の人々が群がったようだ。最初にはいったイエズス会では、日本の高僧の行いを参考に、潔癖な日本人に合わせたマニュアルまであったらしい。

 そんな、深く日本人の心を取り込む様子を恐怖して始まった、キリシタンの弾圧は、元々、過激な浄土真宗からの転向が多かったりの深く傷ついた人々を追い詰め、そして、その人たちに共感し、居残った宣教師たちに、残酷な殉教を強いることになった。そして、信者たちはいつしか、殉教した人々の遺体につよく執着し、死を望むようになり、いよいよ邪教として扱われた。どうしてこんなことが起こったか、星野さんは、先祖の地にあった難破した南蛮船との交流の記憶にみちびかれ、中世の楽器リュートを学び、キリシタンの遺跡をめぐり、宣教師たちの文章をよみ、彼らの心を探っていく。

 彼女は、キリシタン迫害の現場、長崎の片隅に残された最初の殉教者を祀った教会の跡地、宣教師たちがほぼいなくなって、教義が土俗化して追い詰められた人々がこもった島原などをめぐっていく。それらは、今も世俗の権力に逆らっため、教会にも、日本にも無視されている。彼女は、権力者の感情的な行為、ローマの冷たさ、そんなことを見なかったことにして、長崎の教会遺産とはばかばかしいなあと、本のなかで疑問をもっている。それは、キリスト教系の学校で学んだとき感じた違和感でもあるらしい。

 そんな残酷な人間の現実をよそに、その当時でも、ヨーロッパでは、すぐさま、日本で起こった殉教が、熱狂的に絵画や演劇にされ、日本人の残酷さが強調されたらしい。ヨーロッパは日本を凝視していたのだ。そして、それは、ある意味、世俗化する前のカトリックが最後の輝きをもった、日本への布教の興奮だったのだ。そのなかで、「沈黙」で描かれる、上流階級出身者が多い、イエズス会のリーダーのひとりフェレイラがころんだのは、衝撃的なことだったらしいことも納得できる。

 しかし、それでも、大概の現実的な選択をしたなかで、一部の宣教師たちが、その殉教を引き受けたのか。それは、海を越えてまで、悩む人々に真摯に耳を傾けた、彼らへの尊敬と、そのひとたちを一途に信頼し、正しく生きようとする信徒たちへの宣教師の尊敬が起こしたことなのだ。結局は、ひとはひとを切実に必要としている。実に人間くさいことなのだ。たぶん、その後の植民地などで行われてた営みなのだろう。それが文化や秩序の破壊、そして搾取につながっとしても。愛というのは厄介なものだ。

 星野さんは最後、殉教者の故郷スペインを訪ねる。そこでは、バスクの首都とも言える大都市の教会が軽侮され、信者が集まらない。そこの信徒だった、びっくりするほど優しい男は忘れられていた。そして、最後に訪ねた小さな町の教会では、なり手が無く、コンゴ人の牧師が支えているありさまだ。そのなかでも、町のほこりである殉教者を忘れない人々がいる。彼はただ、日本のカトリックの歴史を報告しただけのひとだ。しかし、町のほこりだった青年だった。そして、彼が40万人もの日本人信者のために戦い、そして幾人もの同士ともに死んだことに初めて知り、彼らは涙する。そんな宗教とはなにか、日本人になにをカトリックがもたらしたか、人間とは何かを求める旅が記されている。

 

chinmoku.jp

 

 今のカトリックの現実

 

 

 映画「この世界の片隅に」ものがたることの意味

 

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 こうの史代さんを知ったのは、評判の良かった「夕凪の街 桜の国」を立ち読みしたからだ。本屋さんで涙が止まらなくなって、連れて帰りました。私は滅多に涙が出ないので、びっくりした。原爆のはなしで泣いたのではない。特別なはなしではなく、私にもあった失った誰かを悼むはなしだったからだ。特に目に焼きついたのは、ふたつのものがたりにつながる男がたたずむ、川岸の二枚のこまだ。がちゃがちゃした原爆部落のバラックを背にした若々しい青年、そして、何も無い河川敷にたたずむ年老いた男。かつてそこに存在した家々のことも、生活していた女性たちのことも忘れ去られてしまっている。しかし、いかにこの男の人生に、その女性たちは影をおとしていることか。疎開によって原爆をのがれた子供だった彼は、体験していない多くの人々の代表なのだ。体験した人々の特別な体験に押し込められ、いなかったことにされた人々の恨みつらみ慟哭を、ひっそりと彼は聞いていたのだ。それを見ていた私に、かつて、田舎の墓場にある名もなき墓標をみて、彼らがなにかしら私に関係があることに、ぼっーとなってしまった記憶がよみがえってきたのだ。かれらは確かに生きていた。そして、なにかしら、私の人生に関わっている。

 そんな前作を踏まえて、漫画「この世界の片隅に」は身体化したこうの史代自身の呉の記憶から、より深く、かつていた、戦争で傷つき、生き抜いた人々をよみがえらせようとした。だから、漫画の中で日常をあれほどまでに詳細に再現する必要があったのだと思う。映画「この世界の片隅に」は、そんな、こうの史代の試みを、日常のなかにふとあらわれる亡霊を感じる、多くの人々の思いを集めることで傑作となった。なぜならば、アニメーションが絵をえがくという思念で動きを再現すること、そして多くのひとの絵を集めることで成立するジャンルだったからだ。作品のなかで絵を描くすずさんは、心の中にあったものさえ再現しようとする、こうの史代の分身でもある。そして、そんな作者をかたしろに、死者をよみがえらそうとした、とんでもない映画なんである。

 主人公のすずさんが、映画のなかで「のん」さんの声を借りて、みずみずしい体をもつ18の乙女から、成熟した女になっていくことを官能的に描かれていてるのはいいなあ。若い女というものは、母になるうつわであるがため、人類の無意識の希望だ。戦争が壊滅的に呉を破壊し、そして人々の心を歪めていくことと重なっているのは、どんなに死の世界がかたわらにあっても、自然というものは動いていくことを示していて、よかったなと思う。戦争の詳細な描写、壊滅した呉のまちのようす、原爆の広島の夜、残酷で無残な描写も胸がいたい。でも、私が一番に印象に残っているのは、幼いすずさんが原爆で失われてしまった広島の繁華街の雑踏で、道に迷ってぼっと我を忘れているショットだ。なんと、隅っこにいる、か弱く頼りないものであることか。そして、彼女はある夢をみている。それは彼女が出会うであろうひとだ。もしかしたら、それは夫の周作の夢かもしれない。誰かの夢かもしれない。私たちはかつて生きていたひとを想像することができる。そして、それこそが供養で、自分の今生きていることに感謝し、生き抜く糧になることなんだと思い出させてくれる映画だ。

konosekai.jp

 原作の感想です。「さんさん録」も好きです。

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

 



 

 

 

 

 

 

 

映画「永い言い訳」はこたえる

永い言い訳 (文春文庫)

 この映画はこたえました。まず、話しは、交通事故からはじまります。じつは、私、夫が仕事に逃げて、子育てが煮詰まったとき、こどもふたりと車に乗っているとき、車線をはみだして、相手の車を大破させさせたことがあることを思い出しました。幸い、用心深い夫が保険を配慮してくれたおかげで、相手さんは、無事、新車に替えれたのですが、その場所で、真っ暗な夜、知らない道で、こっちが悪いので、泣きながら平謝りしたのを覚えています。今思うと、遠くを長時間運転して、疲れてふらふらだったし、子連れだったので、そんなにぺこぺこしなくても良かったのですが。自分の車も前が大破してたしね。だから、冒頭、主人公の妻とその友人が交通事故で亡くなり、そして、友人が思春期に入る前と、小学入学直前っていうこどもがいるっていうのはゾッとしましたね。難しい時期なんです。こどもが思春期になると親も精神的に不安定になります。子供が大人になるエネルギーって物凄くて、まわりの支えの弱い親だとおかしくなってしまうのです。ひとによったら中年クライシスと重なるひとも多い。本ですが、医学的にも42歳ごろは、本来の人間の寿命で死にやすいという研究を見たことあります。

 だから、この時期、病気したり、浮気したり、失踪したり、最悪亡くなっちゃう人もけっこう見ました。この話は、下の子は5歳ぐらいで、共稼ぎでもよくいう、小一の壁っていうも重なっているしね。逃避したくなるですよ。この設定だと。だから、危ない深夜スキーバスなんか乗っちゃう。西川美和さん、子育てしてる人、よく観察してるな。

 その奥さんのともだちの夫、書けなくなって妻に当たり散らしている、本木雅弘演じる作家さんが主人公です。彼の奥さんも、繊細でみえっぱりで、一人で生きていけない夫をぶん投げたかったようですね。そんな男が、生き残った友人の夫とこどもたちと関わることで、妻との愛を再確認するそんな物語です。

 時間をかけての撮影で、子役の子が思春期になって混乱している経過も見えるように撮っていて、身につまされました。妻に去られて自堕落な生活をしてる夫が、叱り倒すが、反抗されるシーンがあったけど、同じようなこと、うちにもありました。西川美和さんは、深夜の我が家見てたんじゃないか、ゾーッとしました。その後、主人公が反抗している息子をさとすのですが、親としてダメなのは、残された父本人が、いちばんわかっているってことばで、救われました。あのころ、こどもたちに、誰か何か言って欲しかったなあ。でも、私自身は、あの事故のとき、車の修理を頼んだディーラーさん、現場検証の警察のひとに優しいことばをかけてもらいました。この映画は、今の、社会の手がうすい世の中で、子育てしているひとは、なにかしら、共感ができるはなしではあります。親が全てでありすぎるってつらいです。生身ですから。そんな体験を共有することになった主人公は、少しづつ変わっていきます。他者の意味がわかってくるのですね。

 このなかで「子育ては免罪符」ということばで、親であるひとのずるさをきちんと描いていてすごいなって思いました。そして、遺伝子の運び手である子供とかかわることの義務をのがれている主人公を、きちんとさいなんでいるのも怖い。そんな、人の無意識を多重的に覗いているのが、この人の映画の面白さかなって思います。なんつうか、理系的なんですね。でも、救いはあるのです。主人公をささえるために、妻が友人一家と支えあっていたこと、そして、その支えを、死をもって彼に示したことが、ずっしりと伝わってきて泣けてきます。

nagai-iiwake.com

生者と死者と「君の名は」新海誠

【映画パンフレット】 君の名は。

 とうとう新海誠の「君の名は」見に行ってしまいました。彼は私とおなじ国文科出身だそうで、古今和歌集小野小町の「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを 」と院政期の「とりかえばや」ヒントにしたと、町山智浩さんの「映画ムダ話」で聞き、ついつい好奇心に負けて見に行ってきました。冒頭、高校の授業の「他は誰」他者と自分の境が曖昧になる時間、それを古語で「たそがれ」といい、死者とも出逢う時間との説明があり、懐かしかった。私もこのはなし好きで、オカルトにつうじるところがあって、古典を勉強したいというきっかけのひとつだったように思います。これがわかるかどうか、うまく説明されていたかが、古典が面白いと感じる境目のひとつかなと思います。私はすすんで国文科にいったのですが、同級生はつまんなかったという人多いです。まあ、偏差値の低い大学で、行くこと以外に興味なかったから。だからこそ、自分なりに選んで少しでも好きなことが勉強できる学部に入ったんですが。どうせ、ばかな女の子なら英文でしょって、まわりに笑われたりしました。

 私は義太夫とかをふんだんに聞く年寄りに囲まれて育ったので、授業が楽しめた方だと思います。古典って車の運転を習うのに似てて、脳の使わないところを訓練しなくてはわからないところがあります。歌舞伎は最後まで観れるようになったけど、文楽からは文意がわかっても必ず眠ってしまいます。感覚的に楽しめないです。黒澤明の世代のひとまでは少し頑張れば、能も楽しめたみたいですが。やっと、最近、年をとって和歌やら俳句がわかってきました。経験者によると、死者に近づくとわかる、そういうもんらしいです。まあ、わかってどうなんだって思うけど、へんな欲があるんです。亡くなったひとたちに褒めて欲しいんです。先祖供養というか、松尾芭蕉にもそれがあって、旅をしていたみたいですね。古典の基礎の和歌のせかいは宗教と深い関係があって、それは生者と死者、夢とうつつ、自然と人間、男と女っていうことが底にあって、私はなぜ自分がここに存在してるか知りたいという欲求を求めるのにいいツールだと思います。日本を知る、先祖を知る道標になるような。

 新海誠はどうやら、自然に囲まれ、先祖供養や多神教が日常に残っている田舎で育って、和歌やなんかが感覚的に分かり、自然と一体感をかんじる力があるようですね。そして、それを表現できて共感をよぶ稀有な才能があるのかな。むかし、ジブリの番組でアニメーターが、絵やまんがから学んで、自然を体感して絵が描けるひとが少なくなって困っているということを、鈴木プロデューサーが嘆いてました。アニメの背景にリアルさがかけ、深さが出ないそうです。特に男がだめで、女性ばっかり採用しているそうでした。

 そういった自然を凝視した表現を武器に、ポケモンとかの多神教的な価値観を背景にしたアニメやゲームの伝統をフルにつかうって鉄板かなと思います。意外に西洋のひとの奥にもストーンヘイジとか、そんなオカルトな気分が残ってますもんね。出てくる山の上の巨石を拝むって意外にあって、私のばあちゃんたち、身内が死ぬと山に登っておにぎりを転がしに行ってました。今でもやってるのかな。でも、東京なんかでも、実はそういった場所が残っていて、ラストはそういった場所で終わるのは、私にはリアルでした。町山さんが、新海誠は、電車ですれ違うことが多いと語っていましたけど、電車って運命を運ぶ場所だと、私は思っています。受け身で、閉鎖されてて、自分で選べない。でも、それを楽しむっていうのが鉄道好きではないでしょうか。でも、そこからはずれた場所でこそ、ありえないことと廻り逢えると、なんとなく、みんな思っているのではないだろうか。電車を止める自殺がはやっているのも、なんか関係ありそうですね。たぶん、街でそういった場が見えなくなっているのでしょう。そういった場を求めるひと、江ノ島神社に、カギの絵馬を奉納するタイプのカップルとかが、この映画を見に行っている気もします。

 今まで、新海誠は都会のせいかつへの強烈なあこがれや、とっぴびょうしもない宇宙とかでてきてたんですけど、閉塞感と偏見の多い田舎にかつてあった日常とが、同じように扱われるようになって、すごくわかりやすいなって思いました。だいたい、みんなそんな感じで生きてるんじゃないかな。

 

 
 

福山雅治ってどうよ。映画「SCOOP!」を見る

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  福山雅治のドラマや映画は見たことがなかった。私の見る種類じゃないかったからだ。キラキラした男前を愛でるのは苦手だ、私はやぼなのだ。しかし、日本の芸能界でも、特別なひとだと思う。大河ドラマは見た。幕末のモテ男龍馬に似合っていたから、楽しかったな。福山雅治を崩した是枝監督の「そして父になる」で、はじめて映画で見る気になってしまった。男前が崩れるのが見たいなって、いじわるですよね。そして、今回のパパラッチを演じた「SCOOP」も見に行っちゃいました。

 話を福山雅治リリーフランキーとのふだんの関係性を使って、それで構成してるのをみてると、大根監督は、是枝監督を意識しちゃてるなった思った。福山雅治は女にもてるし、男にももてる。男同志でわちゃわちゃして、下ネタだらけのラジオを放送していた。どちらかというと、恋愛から結婚という女の人との密室を好むひとではない。ほぼお見合いで結婚したのはわかるな。例えるなって言われそうだけど、元ソフトバンクの川崎選手なんかそうだ。チームプレイのひとなのだ。

 そんな福山雅治の持ってる色っぽさを、全面的に押し出したのが映画「SCOOP!」だと思う。話はそれるが、写真家志望の女性が主人公の「キャロル」をパクったんじゃないと思うストーリーもでてきますな。そういうしゃれのめすところを見てると、大根仁は、東京の坩堝にそだった江戸っ子だなあと思う。

 福山雅治もかっこいいけど、今回、二階堂ふみ、すごく可愛くて綺麗だった。おきゃんで色っぽかった。彼女、健康的な逞しさがあるんだよな。東京の風景として出てくる女性たちが、みんな色っぽくとられて、艶っぽい画面だった。だいたい、パパラッチされる女の人の下着、あんなにエッチだと訴えられるんじゃないか。そんな風景のなか、報道の意味が問われて、人に伝えることのたいせつさを、福山雅治演じるパパラッチから、新人記者、二階堂ふみがが学んでいくバディムービーでもあった。

scoop-movie.jp