oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻3「若紫」プロローグ

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 私が大学の国文科で源氏を学んだのは中学時代に貸本屋で読んだ白土三平の「忍者武芸帳」にはまったからです。代表作「カムイ伝」も団塊の世代しか知らないんじゃないかな。画家である白土の父は小林多喜二の盟友で共産党の活動家です。のちに脱会して、ものすごく苦労した人だったらしいです。彼の作品はその体験と戦争が色濃いです。今読むと共産党的な解釈の歴史的な事実が間違っています。江戸時代の被差別民はあんなに暴力にみちてないし、忍者は山田風太郎の忍者もののパクリです。異能者としての忍者は山田が発明です。そちらはSF的な奇想天外な発想なのであきらかにフィクションだとわかりますが、歴史風なのでたちが悪いです。のちに江戸時代研究の田中優子が「カムイ伝講義」で修正しなければならなかったほど、まちがったことを知らせたと思います。彼の素晴らしさはのちに「シートン伝」を描いたように人間の中の自然へのまなざしかなって思っています。今、話題の「釣りキチ三平」の矢口高雄はその自然描写の後継者を自認してたりしますね。

 私は自分が発見したのもありますが「忍者武芸帳」のほうが好きです。あらけずりで舌足らずですが何より本人が書いている。実はカムイ伝は、ほぼ「子連れ狼」の小島剛夕がメインの作画です。下手なんかもしれませんが味があります。異能力者のバトルをまじえて復讐ばなしがかたられます。本筋、列伝と時系列もめちゃめちゃ、でも面白いんです。この魅力はなんなのだろうな。知りたいと思っていたところ、高校で例の「すずし」ののった副読本に出会ったのです。そうか、源氏物語の構成そっくりだ。その理由を知りたいと大学にはいったわけです。その時は自覚はなかったですが。

 で、源氏をまなんだ結論ですが、長編を書いたことのない人は最初はこう書くってことです。まず、短編を書いてみて、周りの人に好評だった。では、こういった話も書いてみたい、そのうち、そのお話の続きが読んでみたいといわれる。で、長編になっていく、そのうち、自分のなかで書きたいテーマがみつかる。じゃあ、短編をその中に取り込んでみよう、そうして、長い物語の作り方を学んでいくわけです。後半の「宇治十帖」は明らかにほぼ設定をきめて長編として企画されたものです。その過程が見える、世界最古の近代小説といわれる理由のひとつです。

 で、話を白土三平にもどしてみると、その読者とのレスポンスがみえるので「忍者武芸帳」にしびれたわけです。本筋にあきちゃったよって、「列伝」にはいったりね。いや、編集者的には列伝が好評だったわけですが。これは水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」にもあって、いろんなバージョンがあるわけです。だいたい、鬼太郎の設定も墓場鬼太郎という他人の借り物からはじまってますしね。

 貸本漫画の世界は読者と書き手が平行だったし、治外法権の自由があったからだと思います。手塚治虫は西洋の近代小説のフォーマットをつかっていますが、貸本派はそれ以前の神話とか説話をまなんでいるわけです。というか、宝塚という小林一三がつくった、地縁、血縁から切り離された場所で育った手塚のほうが特異なのです。

 話をもどすと、千年前に紫式部はそういった神話と中国から学んだより洗練された作話法をグループではなく一代で統合したすごい人なんだと思います。

 で、そういった源氏物語の秘密をどこで知ったか。それは大学なんです。今度はそれについて書きます。

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻2「夕顔」


 

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夕顔の花です。昔、近所にありましたが、夏の昼間早くに咲いてます


 で、「夕顔」の巻のはなし。光源氏が京都の下町に病気の乳母をお見舞いに行った帰り、ぶらぶらしていると風情のある夕顔がからんだ塀があったのですね。その家を興味深くのぞいてみると「めのわらわ」という子供の女中が出てきて、誘ってくる。夕顔っていうのが象徴的で、白いきれいな花が咲くのですが、実が海苔巻きのかんぴょう、あれの材料なのですね。食べ物の材料をかざりにする下世話なんです。

 ちなみに朝顔の君って登場人物もいて、こちらはさる天皇の皇女さま、男を寄せ付けない清冽なお人柄の女性です。でも、退屈な話だったのでしょう。そちらの短編は伝わっていません。たぶん、夕顔はその対称です。彼女はさる貴族の愛人で暇つぶしに男を誘ってみようという感じの人です。自分の好奇心に忠実です。

 で、夜忍んで行った源氏は、はかなげでふわふわした夕顔といい仲になります。よせばいいのに、郊外の山荘に行って逢瀬を楽しもうとします。ところが源氏を恨む物の怪に襲われ、女は突然死してしまいます。

 この当時は都市化が進み、昔ながらの妻問いがとてもリスキーになっていたのがわかります。村の農作業で会って渡りをつけた女性とか、親戚の女性に夜会いに行くような時代ではない。

 都市の人口も多いし、なりわいも多様です。昼間はガチャガチャと子供の泣き声やら職業音が聞こえてきても、夕顔がにぎやかに咲いていても夜の闇は恐ろしい。人の背景がわからない。どんな女かわからない。犯罪者だったりする話もあります。幽霊だったりもあります。この物語もそういったホラーものです。夕顔って昼間の明るいとき、たくさん咲いて青空にはえたりするんだけど、夜になると白い大きな花が不気味なのです。夕顔の特徴をふまえて、日常と怪異との境目を象徴する花になっているのが渋いです。読んでる人は怖いだけでなく、その新味にうなっただろうな。すでに説話でなく心理の闇をえがく小説なんです。

 で、長編化するにあたって、書き足されています。もののけの正体、そして、友人の愛人で女の子もいたこと。これ大事なことなので心にとめておいてください。そうして、落ちぶれたブス女である末摘花、オールドミスで分別臭い花散里、そういった短編を読者に提供していた紫式部は「若紫」の巻に行きつくのです。それから、長編化がはじまったようです。続きます。

 

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻1「空蝉」

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「空蝉」の一場面です


 高校時代、国語の副読本の源氏物語の紹介ページが好きでした。美しい題名もだけど、どうしてこんな複雑な物語がつくれるのか不思議だった。「すずし」という夏の乳がすける着物がイラストが気になった。あれって実在するの、実在したそうです。あのころは乳はエロではなかったのです。それだけではないのですが、大学で源氏を勉強しました。人をなぐさめる物語について知りたかったからです。

 「空蝉」の巻で夏の残暑の日、もろ肌出して碁をする空蝉と義理の娘が描写されます。京都の夏は暑い。若くて大胆な娘は乳出しだが、さすがにおくゆかしい後妻の空蝉は上着をひっかけてます。エロじゃないってさっき書きましたが、裸ですからね。その風景を盗み見して、夜、もやっとした源氏は空蝉を襲います。しかし、上着をのこして人妻は逃げてしまう。それを「空蝉」蝉のぬけがらと歌いながら胸に抱いてもみしだく。でも、一緒に寝ていた義理の娘の処女はうばうんです。そして、軒端の荻、そう、雑草あつかいして、あれはあれでよかったって思い出すのです。エロチックコメディ。

 源氏物語はこうした短編を身近な人に語り、書き写すことで始まったようです。この巻は、落ちぶれて貧しい不美人な女性が年老いた男のおもちゃに後妻に入ってという話です。家に入るということは女中扱いですね。しかし、教養があって、自分の気持ちがある女性は若いおんなです。その女性が、何回かの魅力的な男の誘惑にもだえながらこばむ。そんな心の機知を細かく描いているので胸をつかれる。蝉と荻と「すずし」、残暑のころに起こったことだというアイテムがちりばめられていて、しゃれてるよね。

 好評だったようで、女性の名前を題名にした短編を書きづつける。「夕顔」はホラーです。これも面白い。続きます。

 

映画「砂の器」雑感 

 

 

砂の器 デジタルリマスター版
 

 

春日太一さんの「オール読物」の松本清張賞特集のひとつで脚本家橋本忍の追悼の「砂の器」論を読んでたまらなく懐かしくなったので、久しぶりに見てみた。改めて説話世界を原点とした大傑作だと思う。それをめぐる雑感を書いてみようと思う。

 「砂の器」は、父との過去を知る男を殺害するという話だ。この映画は、映画館でなくテレビで何度か見たと思う。松本清張に凝っていた時期があったので原作も読んだのかな。春日さんが書かれている通り印象に残る小説ではなかったからはっきりしない。

 この小説は芝居で多く取り上げられたハンセン氏病で阻害された人々が巡礼に行くということをもとにしている。この題材はふるく、業病が信仰で救われる「小栗判官」「俊徳丸」といった室町ごろのおとぎ草紙でまとまった形で取り上げられている。能、文楽、歌舞伎にもある。映画を作った橋本忍は、本人が何度か話しているように兵庫県生野銀山ちかくの芝居小屋の息子で文楽に造詣が深かったらしい。人形と簡単な背景で言葉の力と音楽で映像を作っていく。その業病で社会から疎外された巡礼の義大夫のみちゆきの美しさを映画の中で新しく再生してほしいという橋本父の願いがあったらしい。

 原型となった文楽は「小栗判官」系の男女の旅だったらしいけれど、同じ系統の「俊徳丸」を題材に小説「身毒丸」を書いた民俗学者折口信夫によると彼が書いた遺伝病を背負った父と息子の旅芸人のはなしの形が最も古いらしい。それに大阪四天王寺下の異端の人々がつどう合邦の辻の話と結びつけて、後世、富豪の息子が継母の横恋慕というかたちで業病におとされという、継承を邪魔する人物を配して進化してきた。ここに、業と才能の継承が富に代わっているのが面白いと思う。

  松本清張は、橋本忍の映画化を前提に父子の道行を原型とした「砂の器」を書いたらしい。しかし、父子の愛憎まで描き切れなかった。父なるものは彼の専門外だったのかもしれない。父なるものとは何か。父子の相克と継承とは。旅とはなにか。それを映像と語りで語ってみたい、酔わせてみたい、そういった映画だと思う。

 久しぶりにみた映画ができたのは、家族で郊外にハイキングによく行っていたころなので、舗装されていない砂利道がなつかしかった。京都の花背峠あたりによくいった。そして、蒲田あたりの風景をみると、まだ、日本はあんなにも貧乏だったんだと胸をつかれた。古いものが忌まわしいものとして、ただただ排除されつつある時代だった。 

 過去がいくら忌まわしくても、その中には美しいものも含まれている。それを抱きしめて進むしかない。それを音楽という芸術のもとになる美しい何かの継承として、その問いを橋本忍が自分の物語、そしてみんなの物語として落とし込んだことがこの映画の成功だったんだと知った。

 それにしても、主役の丹波哲郎の刑事は、理性的で懐が深いかんじがドンピシャの配役だと思う。発表当時、端正すぎてみだれのない加藤剛は犯人にどうかなって思ったけど、死に近づいた人への畏怖を背負った弱法師の美貌をモチーフにしてみたというのではぴったりだ。三島由紀夫の戯曲「弱法師」のテーマであるを大空襲をつかい、犯人が四天王寺そばの通天閣近くに逃げ込んで住んでいたという過去も意図的なんかなと思う。演技はアラン・ドロン意識してますね。あちらは天然の貧乏世界の出身だけど、頑張ってると思う。島田陽子も本人の暗さがでてますし。

 あのかやぶきの家々、なにもない雪景色、かすかに残っている昔の痕跡、今では撮れないだろうな。背景となる日本の四季の風景が美しい。活舌のいい丹波さんの朗々とした語りで映像とともに彼らの旅が語られる。そして言葉にできない心情が浮かび上がる。これぞ、映画だ。手のない父にかゆを食べさせる息子。そこには一緒に滅ぼうとした本物の親子の情愛が描かれる。

 そのきずなを二人を助けるため善意の警官である緒形拳が裂く。これは子供に恨まれても仕方がない。善をなすのはいかに責任を負うことか感じる。鈍感ではいられないと感じる。そのうえ、犯人の中では父との旅は、やっとこさ美しい思い出として、芸術に昇華されているのに、下世話な地上の論理を説いてじゃまする。橋本忍はラストに真っ赤な紅葉、そして何もない砂丘で終わらせる。その関係のなかにある豊穣、実りの象徴であるもみじ、そして、それが現世の幻でしかないことのむなしさかな。

 

oohaman5656.hatenablog.com

 四天王寺訪問記。もっとも大阪らしい界隈だと思う。後日、崖の途中の安井天満宮、がけ下の通天閣にも行ってきました。

 

オール讀物2019年6月号

オール讀物2019年6月号

 

  春日太一さんの「砂の器」論を含んでます。インタビューをもとにしていて橋本忍の個性、日本映画の中の立ち位置、そのキャリアにおける「砂の器」の意味がわかって刺激的でした。

 

 

 

 

「昨日何食べた?」ホームドラマの行き着いた先

 

きのう何食べた?(15) (モーニング KC)

きのう何食べた?(15) (モーニング KC)

 

 

 12年間の連載でついに実写化されたよしながふみの「昨日何食べた?」、長年の読者である私も大興奮の日々なんですけど、今回、SNSをみてると驚くほどファンがいて、ゲイのカップルということより、今、東京で一番多いだろう共稼ぎ子供なしの隣人のホームドラマとして受け入れられているのを強く実感しました。

 これって男女でもありうる話で、親との確執も家庭というものが子孫をつなぐための機能なんだとしたら、ゲイでなくてもある話というか、カップルの普遍的な悩みです。昔だったら、子供ができないからと離婚を迫る親ですよね。どんな女だったらいいんだっていうシロウさんのお父さんのセリフ、かつてのドラマでよく聞きました。いい女かもしれんけど、子供ができないと俺たちは孤独だ、だったら、もっといい女を世話してやるという。

 最新刊15巻で遠くの介護付きの施設入りを決心した両親が、シロウさんにドラマでも描かれた、お正月楽しく遊びに来ていた子供たちのことが聞かれ、施設に入ってまでの付き合いでないからって言います。つまり、息子がゲイであることといった立ち入ったことまで言えるほどの親しさになれなかったということで、これが今の東京の郊外住宅の限界なんですね。つまりは伝統的な家意識を小型にしたもので血縁関係しか信じられないという。世間という狭いものがあり、その範囲でお付き合いするけど、問題は血縁を主にした家で。しかし、一人っ子だったりしたら血縁自体が詰む。

 今回のドラマが戦前の郊外住宅の勤め人の生活を新しいと描いた松竹映画の制作で食品のCM出身の監督であるのって象徴的です。私は小津安二郎のファンでそのころの映画をいくつか見ているのですけど、新興住宅地の蒲田といった多摩川河川敷あたりでどう生きていくかを提供した娯楽なんだと思っています。しかし、もともとがそういった階級の出身の人がはじめということもありますが、それはどう見ても全員が地主といった大家の生活になろうとした無理があります。仕事や血縁関係でむすばれた村ではないので、隣人とは無関係です。そこに新参者いじめの話、小津の傑作「生まれてはきたけれど」といった子供同士の確執までできてしまう。その子供たちが仲良くなると村が復活してしまうからです。

 その反省もあって戦後、他者どうしが助け合って生きていかざる得ない狭い家がならぶ下町の生活「寅さん」の話になってしまう。そして、厄介者の寅さんの存在で家庭のきづなが強くなる、今じゃ、しつこいです。

 そういったホームドラマも今や多数派になったカップルだけの関係ではあまりにも深刻で、そういった話と社会への抗議をふくめた「獣になれない私たち」では視聴率はとれませんでした。ゲイという、一見、他者のなやみを借りて普遍的な家庭の問題を共感するという、ややこしいことを私たちはやっているんでしょう。そこに今があると思います。

久しぶりのブログなんで、うまく表現できたかわかんないですけど、やはり、文章をかくのは楽しいです。

 

川本三郎「成瀬巳喜男 映画の面影」記憶の扉をあけはなす。

  そういえば、是枝裕和監督が推していて見た、成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」思いもかけず面白かったなあと図書館で借りて読んでみた。戦前の寄席を舞台にしたもので、危なかっしい火をふんだんに使った芸や障碍者がでてくる。男女の中のイメージが強かったので、ちょっとちがうなっていう印象だった。私は見た映画のなかで大阪、天王寺のろおじを舞台にした「めし」が好きだ。ああ、ああいう場所がこどものとき大好きだったな。私は江戸時代から焼け残った似たような場所をさまよった。理想の女性を演じる小津映画の原節子より、古いごはんをかっこむ、この映画のヒロインのほうが、色っぽくて好きだ。これ、舞台の路地がオープンセットだったのは意外だった。幻の過去につみかさなった人間のいとなみへの道だったのね。

 この本の冒頭は淀川長治さんに川本さんがどうですかって言って「びんぼうくさい、きらい」といっているのからはじまる。そうですよね。きれいごとだけではなかったね。でも、わざわざ、編集者時代、インタビューをとっていたりするので認めてはいたんだと途中描かれている。

 読んでみると田中絹代がヒロインの「銀座化粧」の重要な舞台に新富町のてっきん旅館というのがでてくる。この界隈は戦後も焼け残って、江戸のなごりがあったらしい。記憶がよみがえってくる。そうなのだ、小学校に入学前後、お正月、伊豆に旅行したとき、深夜に泊まったのだった。大きい旅館だけど、古くて黴臭くてなんか色っぽいとこだった。風疹かなんかに罹って熱が出た場所だった。 あとで、父があそこは仕事で上京したとき使っていた旅館で、さんざ言い訳していたのを覚えている。祖父が戦前から泊まっていたと聞いたようで、それで記憶のすみにあったのだろう。

 景気のいいときの最後の旅行で、熱がでたり、伊豆の踊子であこがれてえらばれた湯ヶ島温泉のおせちが砂糖の塊みたいで、あまくて不穏な旅だった。この映画については、音楽家大瀧詠一がしらべた詳細なエッセイがあるらしい。そういえば、はっぴえんどの松本隆が音楽にのめりこんだのは、江戸時代からの街並みがオリンピックで壊された世の中への、ぼんやりした違和感だったらしい。

 この映画は2011年のお正月の日本映画チャンネルで、泉麻人さんが戦後すぐの東京の過去を写した映画を紹介したとき見ていた。彼はかつて「テレビ探偵団」という番組でテレビの過去を公平に学問的に紹介してくれてたけど、これ以降、テレビでみていない。ほかに清水宏の「都会の横顔」があった。銀座の雑踏をゲリラロケした実験的な映画だ。「銀座化粧」は江戸の残る風景と水商売をしながら子どもを育ててる、しゃきとした田中絹代がとてもよかった。こういう、しっかりものの役がこの人には似合っていると思う。

 成瀬巳喜男明治維新のとき没落した武士から刺繍職人になった家の人で東京の下町に生まれた。だからか、路地を愛し、江戸の名残のある場所がロケで多いそうだ。よく比べられる小津は大きな商家の出で、高踏的な冷たさがある。なんというか、成瀬は地道さと重層的な意味を感じさせる作風だそうだ。もっと、作品見てみたいな。川本さんがすきな下町の路地を舞台にした、田中絹代が母で香川京子のデビュー作「おかあさん」に特にひかれた。映像のちからで映画の中に歴史というもう一つの映画が見えるような気がすると川本さんは語っている。それは稀有なことに思える。

 

 

成瀬巳喜男 映画の面影 (新潮選書)

成瀬巳喜男 映画の面影 (新潮選書)

 

 

映画「ボヘミアンラブソディ」クィーンをめぐる思いのあれこれ

 

 

II

II

 

 クィーンの「ボヘミアン・ラブソディ」が大ヒットしている。いい映画だし、あれこれ言っても、たいしたファンでない私が語ったところでなんてことない。映画、面白かったって済まそうかっと思ったけど、NHKの「SONGS」で古田新太が語っているのを見て、そうだよなって色々思い出した。

 まず、フレディは気持ち悪かった。そして、みんなこっそりと聞いていたっていうのはあるよなあと思った。好きな楽曲として「フラッシュ・ゴードン」のテーマを上げていたが、面白いけど、いいとは思わない。だいたい、番組はSNSでももっと楽曲ながせ、たいしたマニアじゃないやつの語りはいらんと評判悪かった。たしかに、大泉洋はどうかと思ったけど、言葉足らずの番組だけど、そんなに的は外れたなかったと思う。

 古田新太は若き日、劇団新感線の看板俳優、そのけれん味のあるお芝居はフレディの世界に通づる。私もいいなと思って、劇場映像化された「髑髏城の七人」見ました。滝田洋二郎の「阿修羅城の瞳」も。映画としては評判わるかったけど、市川染五郎宮沢りえの演技はよかったよ。とくに宮沢りえには驚いた。だから、えこひいきもあるかもだけど、クィーンのけれんみのあるわかりやすい励まし、その後ろめたい猥雑さは、彼らに近しくて、とても懐かしい芸能のはだざわりだ。

 今、クィーンは野球場やら、CMなどで当たり前のようにながされ、みんなを励ましているけど、フレディがどんな人で、どんな仲間と、どんな思いで音楽を作っていったか知れない人がほとんどになった。それを語りつくしたのが今回の映画だと思う。 音楽は何よりも雄弁に語りかけているけれど、残ったブライアンやジョンの気持ち、そして、クィーンを聞いてきた人々の思いが、名作まで高めたと思う。

 私はいいかげんなファンだ。だから、映画まではなっと思っていたのだが、先日、映画「カメラを止めるな」を見に行ったとき、隣に一人できてた60代ぐらいの女性に、予告編を「ねえ、クィーンだよね」うれしそうに語りかけられた。そういったことを古い友人に言うと、あんたファンだよって、どうやら、クィーンのカセットを渡したらしい。そんな思いを胸に映画をみた。

 映画の中のフレディの人生は初めて知ったことばかりだ。彼に若い日を共に過ごした女性がいたことも始めて知った。彼がどんな思いを彼女に抱いていたか、そして、彼女は。その切なさを見ててつらかった。そして、彼のセクシャリティについての思いも。あの頃、フレディのでたらめな生活とエイズ感染について、なんだろう、すべてのファンにささげちゃってんだなとまじめすぎるって変な感想を持ったけど、私も知らないなりにわかってたんだなあと思う。彼女を演じた女優さんのインタビューによると、理由はわからないけど、監督のブライアン・シンガーは、彼女のパートを取る前に離脱してたらしい。けど、よく表現できたなあと思う。それだけ、みんなのフレディへの思いが強かったのだろう。

 そういえば、クィーンを紹介してくれたひとに、クィーン、聞いているのって聞いたとき、ロックみたいな下品な音楽は聴かないんだっていわれた。今は上品になってオペラを聞いてると。フレディはオペラが大好きだったみたいだったので、ずれてはいないんだけど。音楽に貴賤はあるのかなって不思議に思った。その人はどんどん忙しくなって、音楽は今ほとんど聞かないらしい。クィーンはそういう心を閉ざしているひとに、何かしらの気づきをあたえる音楽かもしれんね。そういった音楽をずっと大切に抱いている人たちをすごく尊敬する。すごく勇気がいることかもしれない。みんな思い出して、自分をさらけだして、そんな彼らからのメッセージをフレディを見ている人々の映像から感じた。映画はライブエイドに立ち向かうフレディをかこむ猫たち、ライブエイドの映像をみる猫たちが出てくる。生きとし生けるもの祝福だ。フレディの人生は苦難に満ちたものだけど、素晴らしい愛を分かち合った人生でもあったんだなあと思った。

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