oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

現実は善悪だけではさばけない「流浪の月」




 モルモット吉田さんの評論を読んだので感想を書いてみようと思った。

 

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広瀬すず松坂桃李の演技がいいっていうことで見に行った。松坂桃李、演技力あるなって改めて感心したのだけど、役があってるなって思った。宮藤勘九郎が「ゆとりですが何か?」で看破してたけど、この人は童貞臭い。成熟をどっかこわがっているような気がする。だから、性的にゆがみがあるこの役がぴったりだと思った。

 原作は読んでないが、エドガー・アラン・ポーをモチーフにしているのだなっていうのはわかった。昔、代表作である「黒猫」を読んだとき解説を読んだ。エドガー・アラン・ポーは親族であるヴァージニアが14歳の時に結婚する。両親を亡くした彼が彼女の母と一緒にいたいためだともいわれたそうだ。また、アルコール依存症がひどく性的関係がなかったともいわれている。

 そのころのポー夫妻にあった人の手記が残っていて、アル中で貧困にあえいでいたポーの傍らで結核になったヴァージニアが猫を抱いて暖をとっていたそうで、あの猫の話がと思い出したという話だ。

 彼らに愛はあったか。有ったと思う。人の内面はわからない。人の必然もわからない。

 昔はこういった結婚はあった。幼い人が好きな人でも結婚してお互いに長く寄り添えば情が沸いてうまくいく。単なる孤独からの気の迷いだから。これは親なんかのエゴであると思う。だが、人は最善をさがすのだ。

 実際、作家の山田風太郎は20歳ごろ14歳のころの奥さんを見初めたそうだ。怖いって思ったが、彼の作品では成熟した女性しか出てこない。結婚もきちんと成人してからしてますしね。それができる家族の娘さんで運が良かった。たしかに危うい人は結構いるということだろう。

 これらの青年の特徴は親の縁が薄いことだろう。未成熟なところがあったのかもしれない。なぜ、人はロリコンになるか。これは専門に研究してもわからんことだが。

 ただ、性にはゆらぎがある。結構、流動的なものだと思う。

 もちろん、一生直らん人も多くいるわけで、「源氏物語」が今も善悪を問われるのはそのせいだと思う。主人公の光源氏は幼いときから妻になったをないがしろにして、母の面影を求めてという理由で容貌が似た若い妻をめとる。

 万葉集研究者のひとで源氏が大嫌いだって言ってられた人がいたが当然だと思う。

 昔、田辺聖子さん翻訳の「若紫」の巻で、幼く親に捨てられてて不幸で貧困な紫の上を源氏が引き取りたいということを祖母である尼君が断るシーンが長々とあって、退屈だなって思った。

今だとわかる。源氏物語は作者が意識しているかどうかはともかく、その違和感を描いているのが値打ちなんだと。そして、彼が引き取らないから、万人に読まれたさわやかな短編として成立してたと感じる。

 話はそれるが、源氏物語が貴族文化の基盤になったため、その後ロリコンを肯定する輩が貴族に増えて、例えば白河院とか。この作品の害毒も多いように感じる。日本人の若い子信仰に寄与してるとこもあるなあ。これは大ヒット作にありがちな拡大解釈な気がする。

 「流浪の月」の作者はBL小説で成功した人らしい。BLは男女関係に悩む女性のファンタジーとして最初成立したもんだと思う。そういった糖衣にくるんで苦いものを意識する。そういった話法がこの映画の素晴らしい美術、カメラに反映されていて、上品で美しかった。

 物語はそのままを善悪でなく差し出された形である。それは目も前にいる人をありのままで感じ裁かない、考えるヒントだ。

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