oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

映画「MINAMATA」をめぐる雑感

 

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 水俣病について知ったのは大阪市の学校に通ってた頃に読んだ人権の副読本にあった「苦界浄土」の抜粋だった。さっぱりわからない熊本の水俣の方言を使って、何だかわからない恐ろしいことが描かれていた。独特のリズムがあったので、頭に残ったのだろうと思う。

 ユージン・スミスの有名な水俣の親子の写真は色々なところで見せられたが、なんかうさくさいなって感じてた。実際、ヘンリー・ミラーの例もあって、行き詰った芸術家が日本女性と結婚したりして、日本をテーマにするって結構あったので。テレビなんかもそんな扱いだったと思う。

 映画で、彼が硫黄島や沖縄で報道写真を撮っていたことを知った。最後にいいものをという俗な気持ちがあっとしても、命がけだったのだ。

 

 改めて、ジョニー・デップの主演の「MINAMATA」見てみた。

時間って大切だなって思った。もろもろの雑多なものが省かれて真実の一端が見えたと思う。

 それは映画であの親子の写真を撮るまでの家族との交流が細やかに描かれて、クライマックスして扱われていたからだと思う。

 あの写真がミケランジェロピエタを意識して撮られていることに気が付いた。十字架で殺されたキリストを神にささげらえた生贄として描き、それを抱くマリア。

お風呂で母に洗われる、人としての眼も耳もことばも奪われた胎児性水俣病患者。

この写真は彼女が文明の恩恵への生贄であることを欧米の読者に突き刺さしたのだ。

 その写真が残っただけでユージン・スミスの仕事の意味があった。

 

  映画の冒頭、ジョニー・デップは老けたなって感じた。もちろん、メイクのせいもあるけど。そろそろ、脇に回ってもいい年になったんだなって感じた。後半は水俣病患者の家族や患者を演じた真田広之加瀬亮の主演演技が際立っている。脇を演じているけど、元々主演級の俳優さんなのだ。ジョニー、受けの俳優さんとして立派にやっていっている。

 名演だと思う。妻を演じる美波もうまい。こんなにインテリジェンスを感じる女優さんだと知らなんだ。今まで役に恵まれてなかったんだな。いつもの日本を描いた映画の英語をしゃべれるカワイ子ちゃんでなく、きちんとスタンフォード大学卒の対等な女性に見える。

 国村準の堂々の陰影のある悪役演技もLIFE編集長役のビル・ナイの渋い演技もいい。脇の市民を演じる俳優たちも、きちんとこの映画の意義を感じていて演じている感じが伝わってくる。

 何より写真家である監督の映像が美しい。そして、時々挟まれる当時のドキュメンタリー場面やユージンの写真の生々しさが大切に扱われていた。

 

 日本人から見て、確かに水俣に見えないって言う欠点があって、ファンタジーじみているのはわかる。しかし、それは70年代初頭を体験した人も忘れている感覚もあるからだ。

 私はグレゴリ青山さんのエッセイ漫画で紹介された石牟礼道子の「苦界浄土」のサイドストーリーである「椿の海の記」を読んだ。

そのなかの無塩(むえん)の魚を食べれる生活が心地よかったのにというところで色々と思い出した。

 あの頃、新鮮なお刺身は海岸の地域に行かないと食べれなかった。旅館に泊まると気分が悪くなる量のお刺身の舩盛りがでたりした。漁業技術が格段に上がったこともあり、まだ、湧くほどにお魚がとれた。しかし、輸送が悪く現地でだけ消費していたのだ。それにお肉も生産技術が低く高かった。

 

 そのなかで貧しい水俣の漁民は魚だけで生きていた。チッソに勤められるぐらいの人は米がたくさん食べれたので、重症にならない人が多かったらしい。だいたい、小学校もまともに行ってない人が多かった。

 それは土俗的な部分を残す風土なこともあり、その土俗的なところを背景にして、石牟礼道子はすでに特異な詩人として名をあげていたらしい。彼女のルーツは隠れキリシタンの子孫が多い天草だ。漁民たちも有明海をお互いに魚を求めて行き来していた。そのうえで名作「苦界浄土」がはぐくまれた。

 

 元々、株式会社チッソはそういった貧しく、古い習俗が強い人々が多いこの地域だからこそ、危険な水銀がどうしても触媒に必要なものを生産することで始まったらしい。

 これは日本で原発が特別貧しい地域で建設されていたこと、アメリカの水爆実験がインディアンの居留地ビキニ環礁で行われたことと共通している。

 

 貧しく、教育がなく、まるで文明的でない人々の住む辺鄙な土地、そして、そこで働かざる得ない労働者、ちょっとした善意めいた気持ちで行われたのだ。そうして、毒を流すことをマヒさせたんだと思う。

 この映画ではエンドロールにそういった公害の数々を流した。なぜなら、今もそういった隠蔽は人類の問題であることを訴えたのだ。

 文明よ、多くの人々のためとはいえ、いけにえを捧げることを止めよ。そういう主張が明確な映画だった。なるほど、ハリウッドでもお金が集まらなかったはずだ。

 でも、決して政治的なことを声高に叫ぶ映画でなく、理性に訴える映画として佳作だと思う。私の中で「苦界浄土」の一節が残ったように。ものがたりは強い。

 今も水俣付近で水俣病患者はいない人、隠すべき存在らしい。そんなつぶやきが流れてきて、私はこの映画を見に行った。

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