oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

ヴィヴィアン・マイヤーをさがして 

 

Vivian Maier: Street Photographer

Vivian Maier: Street Photographer

 

 

 去年見にいったのですが、、どうにも感想が書きたいのに書けなくて放置していた映画です。トッド・ヘインズが「キャロル」でアメリカの50年代を描くのに参考にしたように、ヴィヴィアン・マイヤーの残した膨大な写真は50年代を考えるのに欠かせないものになったようです。最近、写真家として発見された彼女の伝記映画は、とても興味深く感じました。育児係として、上流階級の家に住み込んだ彼女は写真によって表現することにめざめますが、その写真は、ときには世話しているこどもを虐待するような心に闇を抱えた彼女を救いもし、苦しめもしたんじゃないかなと思います。

 アメリカの上流階級はアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」であったように多国籍の使用人を使うことが一つのステイタスであったようです。移民の国ということもありますが、フランス人を母に持ち、フランス語をしゃべれた彼女はそれを一つの武器としてニューヨークの貧民街から上流階級に雇われたようです。実際、頭が良くセンスがいい彼女はたくさんの美術展に足をはこび、本を読み、たくさんの写真をとることにより、自分の表現したいものを自在に表現できるようになったようです。

 芸術は、心のうさを晴らすという手段してはなかなかに有効です。しかし、得意なことは、得意であるがゆえに麻薬のような苦しみがあるような気がします。晩年、彼女が知識を得る手段としての新聞に埋もれてひとに迷惑をかけていたのは、そんなことがあったような気がします。私は、かつて、手芸のサークル的なところにいたのですが、年配のひとで古布を骨董市で買って溜め込んでいるような、材料に埋まれているひと、孤独なひと多かったです。素晴らしい技能とセンスの持ち主であっても、よる年波で衰えてくのは止められないのです。大芸術家でもそういうひともありましょうが、ちまたの平凡な我々を許してくれるような寛容なんてないでしょう。なんかぞーっとするなあといつも感じてました。

 映画でも問題になっていた虐待の件ですが、彼女も若い頃はこどもを大切にし、また、友人と楽しくすごしていたようです。しかし、いくつになっても別の仕事に就けない階級のかべにつきあたることから、ひどくなったようです。そして、せっかく自分の才能のすばらしさに気がつきながら、作品を世に問うプロとして転身できなかったのも、小さなこどもで止まっている脆弱な精神ゆえだったと思います。アートの世界といえども、資本主義の世界です。才能をささえる強靭な精神力とか社交性とかが必要です。すばらしい優しさを感じる写真を撮れる一方、問題のある性格でのひとでした。しかし、その欠落が彼女をより写真にのめり込ませ、素晴らしい写真を生み出したのでしょう。プロとは向上の方向がわかる膨大な努力を続けれるひとであるとしたら、彼女は充分プロの写真家であります。

 面白いなと思ったのは、彼女がフランスの山奥の母のふるさとに何回か帰っていたことです。そこで、おかしな女と思われながらも、血縁の人をはじめとした村人の写真をとったりして過ごしていたようです。そこで撮られた写真は温かな感情がかよい、映画のなかで展覧会が行われたとき、みじかなひとが美しく撮られていることに人々が感動していました。なんだか、そこに生きるヒントがあるような気がします。なにごとも手作りしないといけないような不便な生活にこそ、アートな感覚が必要でしょう。かつてのマイヤーの祖父母の時代なら、美味しいお料理をつくること、衣服をつくることなんかに喜ばれることで、その人の癒しがあったんじないかと思います。DASH村じゃないですが、サバイバルすることのなかに、生活を楽しむセンスが必要なんじゃないか。アートは傷を埋めるものでなく、生きることを共有するためにこそ、必要だったと思います。だからといって、反動の60年代のヒッピーなんかの自然に帰れ的な生き方はどうかと思いますけど。車を乗り回し、快適な電化製品に囲まれても、宗教に基づくモラルの支配や差別があった50年代のアメリカこそが、彼女のような貧しさを引きずった女性でも膨大のフィルムを使いこなせた豊かさが、彼女の才能をそだてたことは間違いないでしょう。

 

 

 

ヴィヴィアン・マイヤーを探して [DVD]

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