この本の冒頭、慈円の愚管抄の「保元以後ノコトハミナ乱世 日本国ノ乱逆ト
云うコトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ」と引用されている。
この本は私の住んでる秦野市で1993年に全国に散らばる波多野さんたちに取材した記念35年の「波多野氏を語る会」の言うのがあって、その記念に発刊されたらしい。
波多野氏がなぜ秦野の地を捨てたか。
その遠因は保元の乱のとき彼らの先祖である波多野義通が敗者である源為義の処刑に立ち会わされるはめになった源氏都の縁とこの本は語る。なんでも、平安初期から絶えてなかった公式の死刑が復活に彼は立ち会った。
でも、その実態は、僧侶にすると言ってのだまし討ちで、その時、のちに義朝と命をおとす鎌田正清と共に実行者になった。
正清は殺人を義通に実行するように促すが、強く彼が疑問を述べたので、正清が実行しようとしたができず、郎党に殺させた。
でも、その後、父を殺した恐怖からだろう。
信西に命令されているわけでないのに、義朝は青墓の遊女だったと伝わる女性に産ませた末の四人の幼子の殺害を義通に実行させる。その仔細な描写で、これは義重の手記があったことは間違いなかったとされる。そして、「保元物語」そのものも波多野氏の誰かによって書かれたのだろうという説がある。
それから始まる源氏三代への波多野氏の情念が、秦野市田原という鎌倉から遠く離れた田舎に実朝首塚とされる供養塔と金剛寺の仏を作らせたのだろう。
この本を引用した歴史学者の角田文衛は「平安の春」で語る。先日、金沢文庫の運慶展でその観音二体を見て、その素晴らしさに感動したのだった。普段は秘仏扱いで地元の人もめったに見られないので、ご縁があったのだと思った。
私はたまたま学生時代に国文で「保元物語」の授業取っていて、その部分に赤を引いてただけなんだけど、のちに橋本治の「双調平家物語」でこのくだりを読んでびっくりした。こんな悲しい話はあるだろうか。そして、小説のなかで、波多野義通に恐怖にかられて幼子まで殺させる義朝といると碌なことはないと語らしている。義通が、すぐ、故郷に逃げ帰ったは事実だ。
改めで押し入れに突っ込んでいた「保元物語」も読んだ。
そこを学んでほしいという先生の思いを知った。私がここにいるのはなんか意味があったかなって思った。
さて、波多野義通と義朝の縁は京都で御所女房のはしくれだった彼の妹とされる女性が朝長という子を産んだことだ。
秦野の地は今は矢倉沢往還といわれる東海道本道がかよっていて、交通の要地だった。材木やら、弓矢加工と建築に有用な漆やら、馬やらで現金収入がある波多野氏はそこそこ裕福だったので入り込んだらしい。波多野氏は秦野盆地の外にある米が豊かな松田の地を朝長に渡した。彼らは小田原平野にも出ていて、小田原にも砦があり、本拠の田原の名をとって小田原としたらしい。
のちに、義朝は熱田神宮管理という裕福でもっとおいしい出身の身分の高い御所女房だった頼朝の母を娶った。そのあたりから関係がこじれだした。
のちの平治の乱にも朝長の乳母父だった義通は参加はしたが、「平治物語」には退去の時しか描写がない。その後、彼は平家に寝返った。
ところがである、妻の実家である北条氏を後ろ盾に源頼朝が石橋山の合戦を起こした。
なんでも2年前に頼朝は秦野に狩りで来ているらしい。
歴史家ってすごいね。そこまで調べてる。うわべは感じよくしてたらしい。田舎の人たちらしいなあ。彼の幼馴染で平家に命を狙われた中原親能は秦野育ちらしいし、色々あったんだろう。中原家は代々、波多野氏と婚姻を重ねたそうだ。
そこで頼朝は合戦への参加を申し込んだが、義通の息子で当主である義常は断った。 乳母子である山内須藤俊通は裏切った。断りの罵倒が残っている。彼は父をむごく義朝に裏切られ殺されたらしい。暴力の家である源氏にかかわると碌なことはない。
波多野氏は石橋山合戦に参加していない。忠義に悩んでといいたいところだが、大庭家の人を妻に娶っていた彼には大庭兄弟の不仲の影響があり、また、三浦の氏族である隣の岡崎氏とつながっている人もいて、一族はどっちつかずだった。
敗戦から反転して頼朝は鎌倉に入った。そのとき、母方の人である下河辺行平を差し向けられたが、彼は自殺した。そして、力の衰えていた波多野氏は秦野の地を北条氏にとられた。その後、辛うじて残った田原の波多野氏の中心は義常より、八田知家と寒河尼の姉妹を母にする弟の仲綱に移った。
彼は伊勢神宮の宮司との縁戚があった伊勢の波多野領を相続し、伊勢の平氏の討伐から始まり、源平の戦いから承久の乱に参加した歴戦の勇士だ。でも、吾妻鏡に重く出てくるのは和田合戦以降だ。神奈川県の豪族が三浦と波多野ぐらいだけになったからだろうと思う。
実朝は次世代の波多野氏の人たちを頼りにした。朝定という人に朝廷への仲介を頼み、学問所という勉強会に何人かを参加させた。元々、下級貴族の中原家と婚姻を重ね、関西と縁が深い波多野氏に親しみを感じたのだろう。しかし、実朝の横死により、波多野氏は北条氏の家来として京都で生きていく。
承久の乱で波多野氏は何人もの命を捧げ活躍した。そして、多くの関西の領地も得た。片目を失くした英雄、波多野義重はのちに六波羅探題の長となった北条義時の息子である重時の婿になった。
そして、実朝の七回忌に供養塔と金剛寺を建てた。金剛寺は栄西の弟子である行勇の創建だ。高野山の金剛院と双子の関係らしい。実朝の法要は正式には高野山で行われたのだが、相模にいた有縁の人は寂しかったんだろうと思う。しかし、鎌倉で弔うべき政子もいないし、将軍も家が変わって形ばかりの供養しかできない。源氏に情念を持つ波多野氏を中心にということになったのだろう。それゆえに美しい御仏と塚が残った。
実朝の塚が首塚といわれてのは江戸時代で波多野氏の縁戚である武氏が帰農したころらしい。首が見つからなかったという吾妻鏡の記述が原因だ。どうやら、その時の記録が残されていなくて、正確なところがあいまいにされていて伝聞を記述したらしい。
冒頭の慈円がいなかったら歴史のすみっこに正確な記録はなかった。
慈円さんはほんとに概ね客観的で冷静な人だと思う。これからの世を憂い、人に対しても平等だ。頼朝と和歌の応答もしたらしい。愚管抄は承久の乱の直前に終わっている。年も取ったし、あほらしくなったんだと思う。
では、この本の本題である波多野氏の出自を知っての感想。続きます。