oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

困難が終わった世界「昨日何食べた?」

 

 

 昨日何食べた?の新刊がでた。いつもの定番の登場人物が現れ、おいしいごはんが紹介される。そのなかでラスト今まで出たことのない母子の話がよかった。

 キャリアウーマンらしい娘。離婚して帰ってきたらしい。子供もいない。

そして、夫の介護を終えた母。やっと、同じマンションの角部屋からの夕餉のにおいに気が付けるぐらいに落ち着いた。そして、帰ってきた娘に同じものを作ってやろうと思いつく。

 それは二十年ほど前にあいさつに来た娘と同年代の男の部屋だ。

それが主人公の筧史郎だ。

 作者にとってのキャラクターとは。それは自分の心に訪れる隣人のようなものなのかもしれない。よしながふみは20年彼の隣人として過ごしてきたのだ。

 最近のよしながふみはお母さまの昭和のレシピを聞いて作品で発表していると聞いている。たぶん、この母子の姿は二人の写し絵なんだと思う。

 作品はよしなが親子を温め、そして、天職を得たなかでの欠落をかみしめながら小確幸に感謝する。そんな姿の写し絵だ。

 よしながふみが「大奥」という時代劇ファンタジーを描いた理由も感じる。ほんの少し前までどんな身分が高い人でも富豪でも子供を亡くしたり、障害を負ったりすることが日常だった。

 今はお金の力や化学の力で和らげられるのでそれを抱え込むことから逃げた風にはできる。でも、その事実は確かにある。その心の動きを描いてみたいんじゃないかと感じる。なぜならば、思いやりや社会へのまなざしも忘れてしまうから。

 

 今回の母子もだけど、筧さんをはじめ出てくる人々は言葉にできない困難を乗り越え、安定した生活を送る市井の人たちだ。しかし、傷はいえることもなく、困難もなくならない。それでも日々の生活のなかで確実に幸福を感じる生活ができている。そういう人々の死や老いを受け入れる準備を長々と語った物語なんだと思う。うん、慰められる。

 

 

 

 

もてること報われること「鎌倉殿の13人」第39回の感想

 


歌人として天才である鎌倉幕府三代将軍である実朝はどんな人だったか。彼には後見である大江広元と叔父である北条義時に養子をとってくれって頼むという吾妻鏡の史実がある。それをすんなり受け入れた彼らはどうかしてると古来いろんな推測があるらしい。

 まず、普通に考えて青年期にかかった天然痘の影響で性的におっくうになっていたことだと思う。吾妻鏡にも天然痘で痴ほうの障害が残ってしまった人がいて、昔の疫病はいろんな病気を呼び込んで大変だったようだから何かあったのかもしれない。

 でも、人間のあいだには心の交流がある。エロスが動くのだ。

実朝は恋の歌が結構ある。もちろん、あの頃は僧侶でも恋の歌を歌う。恋愛小説が小説の王道なんだから、歌の世界もそうなんである。だから、あってもいい。

 しかしですね。

詞書で

忍んで契りを交わしていた女性が、「遥かなる方へゆかむ」

 

結(ゆ)ひそめてなれしたぶさの濃(こ)紫(むらさき)思はずいまもあさかりきとは

 

髪を大人として結い始めたころからの付き合いの、たぶん、初恋の人への情熱的な別れの歌ですよね。思い人があったのだろうか。

でも、これは男性への別れの歌なんじゃないかなって解釈もある。なぜなら、髪をそいで仏門に入ることを暗示させるからだと思う。

それを竹宮恵子先生の吾妻鏡では採用してますな。出典はわからない。

彼の側近で和田朝盛という人がいる。この人はほんとに身近にいて忠義を尽くしていたらしい。彼は最初は実朝の兄である頼家の近習に取り立てられていた和田義盛の嫡孫である。

ドラマではこれから起こる和田合戦ととき実朝のところに行かないよう軟禁されていて、やっとこさ直前の月見の歌会に参加したらしい。その時、実朝にいろいろと領地の約束をされた。それを打ち払って彼は仏門に入った。その時に実朝の名をつけた実阿弥と名乗った。

 結局は彼は弓の名人だったので逃げる途中に祖父に呼び戻されて合戦に参加した。それを生き延びて承久の乱で宮方で参加した。

 息子がいて、彼は親戚の佐久間という家に入って父親と戦ったらしい。

 

あの当時でも忠義の人として尊敬されていたのだろう。

 その忠義は二人の情愛ではないかという説があるらしい。わからん。しかし、朝盛はほれていたんじゃないかと思う。実朝はわからん。

 ふたりには和歌をめぐる話もあって、歌の返歌のお使いをする話もある。朝盛が返事をもらってこいと言われて歌の名人を探し当てる話である。

 

庭に植えた特別な種類の梅が咲いたときに

 

 君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端に匂う梅の初花

と歌って梅を送った。

 

返歌は塩谷朝業っていう和歌を代々学んだ家柄の人が返した。

 

 うれしさも匂いも袖に余りけりわがため折れる梅の初花

この話は朝盛が歌が得意でなかったのでお使いをしたエピソードだ。

 

 そうなのだ、鎌倉殿の泰時の話はこの話をもとにしている。泰時という人は好学でいろんな本を読んでいた。兄貴分として本の紹介をしたりもしたらしい。

そして、実朝の和歌の会にも熱心に参加していた。承久の乱ののちに藤原定家のところに通ったりしたそうだ。

しかし、二人の交流はほぼ記録にない。泰時は恋愛の歌がほぼないらしい。それどころか、奥さんとなぞの離婚をしている。その後の愛人との子がいたらしいが影が薄い。

それゆえの三谷幸喜の想像なんだと思う。

 

実朝という人は次世代の若い鎌倉の人に憧れられたところがある人らしい。

女性と関係がなかった宮沢賢治にちょっと似てるなって思う。実朝は愛妻家ではあったようだが。彼も非常にもててる。文学好きの若い人のなかでは知る人ぞ知る人だったそうだ。

 

そういった実朝の人格がいろいろな人な心に残り、大好きな人が結構いたのだと思う。その彼がテロで殺される。切ないことである。美しい恋愛があったと思いたいと後世の人は感じる。

 

 

「アイアムまきもと」地味にしみる


  へえ、「おみおくりの作法」阿部サダヲでリメイクするのか。私は配信でぼんやりこの映画を見てから結構気に入っている。

英国のやたらめったら脇で映画出てるエディ・マーサンの唯一の主演で、英国のどこかにある「おみおくり課の役人」の話である。

おみおくり課とは何か。孤独死した人の葬送の手続きをする係である。それほどに近代化した社会では多くなった。もちろん、日本もそう。だから、地味にこの映画を面白いと思った人たちが阿部サダヲでリメイクしたのだ。

 

 この映画は「フルモンティ」というイギリス労働階級を描いた傑作コメディを制作したウベルト・パゾリーニの唯一の監督作だ。「フルモンティ」見た人います。私は見てない。ミュージカルまでなってヒットしたらしい。

 

 この人は耽美派監督だったビスコンティの親戚らしい。名前も何かに匂いますね。20代からイギリス映画でキャリアを積んだ人だそうだ。

そういうキャリアがあったから人生を後半に満を持して脚本をかいて監督したのだろう。ベネチアで賞もとってる。

 

 ちゃらけた宣伝が話とあってなくてがっかりだったが、実際見てみると、平凡でつまらない遺体の保護と肉親捜しと葬儀の日々から、係の廃止、そして隣人の孤独死から遺族の発見へのロードムービーとなる切り返しにうなされる。

 

この映画、ほぼ原作どおりなんですね。これ、阿部サダヲの舞台でもいいなって思った。脚本がほんといいのだ。なんで、好きなんかわかった。

 

このパートでイギリスの名優たちとの演技とイギリスの田舎が堪能できる。こちらでは、でんでんや松尾スズキ、そして、宮沢りえが出てる。

そのなかで隣人の娘役の満島ひかりがいい。

 

これは原作のダウントンアビーのアンナ役の女優さんよりいい。ちょっと、原作いい子ちゃんすぎるんですね。ほんと素敵な女優さんだと思うのですが。

満島ひかりの陰影が濃い。坂元裕二の原作で主演撮った水田伸生監督好きですな。

父の死を知った彼女は葬儀への出席を断るんですが「私には親というものがもういないのね」ってセリフをいう。私はそこでわーとなったのですよ。

 

原作は主人公は彼女に恋をするのだけど、そこは改変されている。まあ、主人公の俗人性が出てるとこでもあるのですが。

なんか、隣人の娘への愛に憧れる形になっています。

 

そのためか、隣人の若き日の友人で盲目の男を國村準が演じてるんですが、唐突にお風呂場で主人公と話すシーンがあったりしてわかりにくい。どうやら、彼が表れたから隣人は妻子を捨てたらしい。

たぶん、興行をよくするために人気の若手である松下こう平が主人公と対立する警察の係の人として出てるんですがこれも意味がわからん。阿部サダヲと掛け合いのシーンもあるんですが、下手です。。。

 

原作は愛する母を亡くした一ロンドン市民なんですが、阿部サダヲは田舎にどこから流れてきたかわからない男です。これは彼の宇宙人じみた個性に合わせたんだと思う。

 

ラストに主人公が死ぬんですが、これネタバレになるな。刑事が彼の葬儀に立ち会い墓地に納骨する。その時、大雨になって、なんでだと思うのですが、その時の雨にぬれた松下こうへいは美しい。遠映で写された彼は、なんて、美しい青年なんだろと思いますね。その下で隣人の葬儀が彼の努力で新たな縁を結んだ人たちによって執り行われる。

 葬儀が行われる意味がワーッと分かる。人は人としてあるのは葬儀があるからなんだ。コロナ禍でこの戦争の中でしみます。

そして、主人公の理由もわかる。うん、隣人は彼と同じ理由で人を遠ざけてた。

でも、がんばったんです。それは人に主人公と一緒で伝わっていたんです。

 

うん、人は少ない興行だったけど、見てる人は満足できる映画でした。

www.iammakimoto.jp

初恋の悪魔 最終回


初恋の悪魔、面白かったです。脚本の坂元裕二が生まれ変わった感じがしました。前の「大豆田とわ子と三人の夫」も特に岡田将生が良くて好きだったけど、配役の力を借りて更新されていた感じがしました。

 最初、仲野太賀を目当てに見てたんだけど、もちろん、前半の松岡茉優に対する感じがとても良かったんだけど、最後は林遣都がさらった感じがします。

 最近の林遣都は「おっさんずラブ」の成功もあって癖のある脇で行くのかなと思っていたんだけど、そうだ、この人は主人公デビューだったんだと改めて思いました。

 休職中の刑事、鹿浜鈴之介役なんだけど、これが作者である坂元裕二と被っている役だと思いました。人と違うそのことで孤独の中にすんでいる人なんですが、仲野太賀演じる馬淵悠日が署長である男に紹介されて会うのですが、どうやら、署長は彼が自分を救ってくれる可能性がある人だと思っていたようなんですね。それは兄を亡くした馬淵もかもしれないと。ドラマを見ていくとその気持ちがわかってきます。

 

 そうして、ふたりは松岡茉優演じる心に傷を負った女性を好きになる。その傷はどうやら署長も関係しているらしい。

 

 松岡茉優、すごく才能のある女優さんだと思いました。

かつての坂元裕二の「問題のあるレストラン」でも輝いていましたね。

そして、仲野太賀と林遣都とキャリアの最初のころに共演もしています。林遣都と時代劇で恋人役もしています。

 

 

 話はずれるんですが、その原作である「銀二貫」は高田郁の描いた画期的な時代小説です。宝塚にもなってます。

 

 まず、江戸時代の大阪商人の世界が舞台であること。寒天が改良されて、ようかんという新しい菓子の材料になった史実を基に描かれていること。そして、仇討ちで浪人になった男の幼子が商人になったこと。その子をひきとった商人と番頭がたぶん同性愛者であったこと。そして、ヒロインが大火で記憶喪失になり、顔に傷を負った娘であること。特に高田郁の小説は「みおつくし料理帖」もそうですが、神戸の震災の影が濃いです。

 新しい歴史研究をもとに江戸時代の大阪の商人の世界と人情を再構築した小説です。

それを林遣都松岡茉優を主演に津川雅彦塩見三省を脇に添えたこのドラマは良かったです。ほぼ、中高年ぐらいしか見てなかったと思うけど。

ああ、この二人をまた見てみたいって、私は感じました。傷持つ人を受け入れる物語を見たいと思いました。

 

初恋の悪魔の前半の仲野太賀との物語も同じように受け入れる物語です。それは体が受け入れる物語、そして、後半は頭が受け入れる物語です。そちらは作者の影が濃いですが。

 

 

 今回の松岡茉優は二重人格者です。一方の人格は社交性があって明るい馬淵を愛している。馬淵は彼女の二重人格を許せる包容力のある青年です。鹿浜も彼女に魅せられる。しかし、健康な馬淵の支えこそがふさわしいのです。

 しかし、連続殺人の冤罪事件の真相がわかってくるうちに、松岡茉優演じる星砂は別の人格になって鹿浜が好きになる。彼女の傷を取り除く人として愛しく思う。

 

 これは女優の演技とプライベートの暗喩ですね。日常と非日常との対比でもある。鹿浜の初恋は幻想の中でかなえられる。

しかし、事件が終わると失われるのです。

 そういった自分が全部はひきうけられない他者をどう理解し共存するか。犯罪が舞台になっているのも理由があるように感じます。

 

 これは作者と演者の話ともとれる。惚れなければ、その人を知らなければ、その人に当てはまった物語は描けない。そして、その体を通して受け手の心を慰められない。しかし、それはいつか終わっていまう幻想なのです。

 

 また、演じるとは誰かになってみたい演技者の冒険でもある。刑事にも犯罪者にもなれます。それは、別人格を演じるロールプレイングのようなもんだ。しかし、物語に乗っ取られて操り人形になってはいけない。これも終わらなくてはならない話です。

 

 初恋ってなんでしょうね。他者のなかに自分を写す試みだとも思う。彼女の中にある自分が好きなんです。それを極めてしまうと必ず生身の他者に行きあたってしまう。

 

とりとめない話になってしまいましたが、結構複雑で多面的な物語で楽しかったです。

 

その作者を投影した林遣都の鹿浜が愛が受け入れられて、それが夢がうつつかわからないシーンは美しかったです。それが耳かき一杯のなぐさめだとしても彼は孤独を受け入れ、思い出と共存して生きていくんだろうと思わせてくれました。

www.ntv.co.jp

 

 

 

 

 

 

 

明恵上人の子犬



私は明恵上人が好きだ。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見てると北条泰時明恵上人に出会い、色々とカウンセリング的なことをしてもらっていたことを知った。

 

私の父が新しいお母さんと子供たちと団らんしてるのを見ると、私は愛されていなかったのではないかと憎かったと言っていたらしい。

どうやら、弟の一人も同じことを明恵さんに言っていたらしく、両方が悩んでいたのだなと思う。

 

そんな乱世のカウンセラー、明恵さんのお墓に捧げられたのが運慶の息子である湛慶が作った子犬。うん、ずっと考えている。

 

関連のブログもこんなに書いていたか。

明恵さんは西行の和歌の弟子のひとりで、かの文覚の孫弟子である。そこも言及している。栄西さんの権力大好きも。比企家殺しにもおびき出すネタにされてしまっていたが、本人どう思ってたんだろう。

 

明恵さん本人も父である平重国を頼朝が上総国府を襲ったさいに殺されているらしい。この人は伊勢の人で伊藤とも名乗り西行法師の遠い親戚だそうだ。ドラマの中ではモブなんだろうけど、人には歴史があるんだな。

子犬、抱っこしたいな。。

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

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岡本綺堂 心の中に秘めたもの 余白

岡本綺堂の小説でいいなって思うものの感想を書いてみようと思う。

 

 

 

まず、アンソロジー「山怪」に載っていた「くろん坊」。

 

働き手の優秀な息子が僧侶を志したことを許した山深くに住む貧しい一家に起こった悲劇。江戸時代の貧しさつらさがにじむ出る話。

 

 「小坂部姫」

舞台は京都双ヶ岡。歌舞伎である忠臣蔵に出てくる、かの塩谷判官の妻に横恋慕したという高師直の娘である小坂部姫をめぐる話です。恋に悩む父を助けようと、娘は代筆を頼もうと恋人の采女と双ヶ岡の兼好法師を訪ねます。霧深き双ヶ岡を舞台に宿命から逃れようとする乙女。彼女は恋人の采女と結ばれることを願うが、悪しき家族や家来に邪魔され、家がほろび悪魔に魅入られます。

そして黒猫の血を飲み姫路城の祟りなす主となります。

戦乱の時代の残酷さとしっとりと濡れたわびしい荒野の霧の中の怪異、美しい絵巻のような小説。

 

岡本綺堂はアマゾンからも読めるし、青空文庫にもあるので短編をふわっと楽しんでほしい。

歌舞伎や江戸文学の教養があるともっと楽しめそうだけど、難しくはない。人の美しさへの視線は本物だと思う。そして、古き世への懐かしさとおぞましさへの記憶がある。

 

 

 

 

岡本綺堂 心の中に潜むもの 修善寺物語

 


私は今大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に夢中なのだけど、便利な世の中だ。SNS で歴史について色々と教えてくれる。それで源頼朝の息子である頼家の死に顔を写したという仮面が実在することを知った。それは地元の伝承で毒である漆を流した風呂で殺された頼家のただれた顔を写したとされているそうだ。怖い。

 

昔、何かで修善寺物語を読んだときに仮面作りの一家の話でこんなもん造った人いたかと思っていたが、実在していたのだ。今回、岡本綺堂の原作だということも思い出した。

 

岡本綺堂は明治に新作歌舞伎の脚本に進出していて、番町皿屋敷、鳥辺山心中、そして、修善寺物語が残っている。そのなかで番町皿屋敷は、今でもわりと上演されているそうである。

そのなかで修善寺物語は海外公演用に作られたものらしい。だから、短編でちょっと肩に力が入っている。

 

岡本綺堂の作品の特徴は西洋的な観念の恋愛の導入であると思う。それがうまくいっている作品もあるけど、今読むと概念は古いなって思う。なぜなら、西洋では恋愛自体が離婚の多発を誘発しているからである。結婚は日常なので情熱は続かない。日本でも恋愛至上主義は結婚の妨げになっている。ありゃ誰でもこなせるもんではない。

 

修善寺物語は恋愛の要素とシェクスピアの史劇の要素を融合させた新歌舞伎である。

 

今回、その成立について自ら語った「修善寺」という文章を改めて読んだのだけど、初めて分かったことが多かった。

 

岡本綺堂修善寺温泉に遊びに行ったとき、頼家についての現地の伝承を知った。そのとき、仮面の存在と伝承について知ったのである。

そして、苦悩する若者としての彼の実在感を感じた。史劇に出てくる青年を見つけたと思ったらしい。

そして、母の政子が訪れたとされる御堂の存在を知った。歴史上の傲慢な女性と思っていた人が、母として苦悩していたことを初めて感じたそうである。

 

修善寺物語は新しい演劇の実験として尊敬され、私の子供時代ぐらいまで本にのり、新劇でも上演されていたわけである。

 

この中で源範頼の墓参りも行っているのだけど、初見の時は誰か意味がわからなかった。まして、岡本綺堂は蒲殿と呼んでいるのである。

岡本綺堂と読者は江戸からの読み本や歌舞伎の歴史認識を共有している。その教養のなかで物語が展開されているので、今の私たちには岡本綺堂はわからないのである。

 

それでも私が今読めるのは、彼の江戸から明治へ至っての西洋の新しい文化へのありがたさを踏まえて、忘れ去られようとする文化の良き部分を残そうとする努力への尊敬だ。

そして、その中で展開される摩訶不思議な普遍的な人間のありさまへの理解なんだなって思う。ホラー作品にその良さが出ていると思う。

そんな過去の演劇への尊敬をきっと持ってる三谷幸喜はどう頼家の最後を描くか、すごく楽しみだ。

 

www.nhk.or.jp