私が是枝裕和の映画を見始めたのは、「空気人形」からだ。「誰も知らない」が評判になって、好奇心が刺激されたからだと思う。あざといなと思いながら、死のにおいが切実にする映画だった。それまでは、なんだかすかした映画をとるアート系の映画の人のひとりという感じでみていた。そういった映画は、確かに映画祭なんかで、ちょっとした賞はとるけれど、せせこましくみる人をえらぶ。
答えを知りたいっていう感じは、その監督の映画を見続ける動機の一つになると思う。で、ずっと待っていた次作、「そして、父になる」のラストは納得できなかった。主人公が子供の取り違い先の家族にひかれて交流する。あったかいけど、こういった親は子供の小さいときはいいけれど、大きくなったら足をひっぱるのだなあ。やっかみもあるかもだけど、「ぐれるよ」って言っていた山田太一は鋭いと思った。そのアンサーが「万引き家族」だと思う。やはり、リリーフランキーの父親はやばいって。
困っているひとは困っているひとにするどい。なぜなら、自分を救うことになるから。しかし、面倒はみきれない。力不足だもんだから、破綻する。そんな人をたくさん見てきた。そして、もっと残酷なことになる。
余裕のあるひとが困っている人の面倒をみる。それがいい。でも、普通の人は足をひっぱられるのですよ。だから、どんどん優秀なひとが求められる。でも、そういう人は困っている人を実感できない。ここがやっかいなんだな。そんなことを思いながら、この映画を見ていた。
作りての混沌まで写しこんでいて、人をいろんな意味でざわざわさせる映画だと思う。私の好きな詩で、小林一茶の真っ暗な雪に閉じ込められた冬の農家で、保存食のねぎが芽ぶくことをつづった文章がある。
ねぎは へっついにうえりて 青葉をふき、雪に囲まれて真っ暗な農家の風景だ。
その春の詩
「雪とけて 村一ぱいの 子どもかな」
生き残った子供たちの歓喜の声だと知った。そして、生き抜いてついに家族を作れる一茶のよろこびの歌。
「万引き家族」の荒廃したありさまが写しこまれる。でも、その中にある光あるけしきは、ぞっとするほど、色っぽく美しい。そういった世界の中の兆しを信じたいという願いをえがいた映画だと思う。
小林一茶的な世界観について感じたことを書いた文章です。なんとなく、この映画とつながっていると思う。