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oohaman5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと、書いています。

実感としての戦争「戦争と一人の女」

マンガ

 こどものころ、 戦争体験をかたる人の話を聞いていると、一種の冒険談のようなはなしになって、目が輝やくのって不可思議だった。かの太宰治疎開先を転々としながらも、一番健康だったのは戦争中だったと吉本隆明の本でよんだ。障害者も仕事が初めて回ってきて、そのときだけは人に頼りにされ生きている実感があったと語っているのも読んだことがある。戦争にはなにもかもをかき回す、誰もが参加可能な祭りのようなもんなんだなと思う。だいたい、お祭りで、何人かが不慮の事故で死ぬことがつきもんだったりする。争い自体は退屈しのぎというか、ぎくしゃくした社会のおりを吹き飛ばすため、人間につきものなんだろう。しかし、近代戦争は多くの物量と人数を破壊するので、反戦というかたちで防ごうとされている。しかし、戦争が人間の社会の装置であるかぎり、その実態は変わらないのかもしれない。

 戦中戦後の坂口安吾の小説を漫画化した「戦争と一人の女」は、そんな生き抜くための高揚感がただよっているような気がする。女郎出身の不感症の女がいる。その欠落感を埋めるためにいろんな男と関係するが、戦争になって、寄る辺なさそうな男と一緒になる。戦争のあいだ、真に心を結べない男女はお互いに執着するが、終わってしまうことでその無理が終わってしまうことを予感する。無理が通る、それが戦争のなかにある何かなんだろうか。

 立ち返って、古い本を読むということはなんだろうと感じた。若い人に今生きてる実感がない古典を読めっているのは酷だろうなと思う。しかし、自分が感じてることは、かつて誰かが感じたことであるのを知るのは悪いことではない。この本の社会の犠牲になって不感症になった女と、それを克服するためのどす黒い気持ちが、戦争に通づる、なにかをかきまぜたい気持ちに通づるんだと思う。不感症が悩みになるっていうことが、結婚という制度に守られた女が男女の一体感を感じられているという錯覚だ。そんな、自分でも頭ではわかっていても、体で実感できないなやみというのは、ごくそばにある気持ちで、それが克服されていないということが、古典を読む意味の一つかなとおもう。

戦争と一人の女

戦争と一人の女