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日々の思いを言葉に出来るといいなあと、書いています。

田辺聖子を改めて読む2

 短編集「感情旅行センチメンタルジャーニー」を始めて読んだ。その中で驚いたのは戦争体験からくる虚無感と怒りの感情の強さだった。たぶん、女性目線では生々しくて書けなかったのだろう、男性が主人公の短編集だ。最後の「玉島にて」が唯一、女性が主人公だけど、私小説的なものだ。初期のものなのでバラエティがある。

 「感情旅行」は、60年代前半に書かれた。生きていた時代なので、かろうじて実感できるけど、舗装されていない道の土埃のにおいが浮かんでくるような映像的な文章だ。ずっと思っていたけど、そこが田辺さんの文章のよさなのですね。この本では、その当時の貧困のさまをありありと思い出した。クーラーのない暑さや夜のいかがわしさ。主人公の恋敵の共産党にかぶれていたりする男も実感がある。といういか、父の兄がかつて共産党員で女たらしだった。さっさとやめて快楽主義者になった。彼が、海でカキやらアワビやらを仲間と密漁しにいくことを自慢するのいやだったな。この小説の男は忘れたように家庭におさまってしまう。そうゆう人も多かったろうな。この本を読んで、叔父のその背景にある虚無にやっと気づいた。そういえば、あの兄弟たちは十代、学徒動員で、田辺聖子と同じように大阪市内の工場に行ってたはずだけど、うまく言語化できないようだった。

 表題作はそのごちゃごちゃの感情を無頼な男女の恋愛に落とし込もうとした小説だ。あきらかに織田作之助林芙美子の戦後を描いた小説の方向性のさきをめざしたものだと思う。その後のエッセイで読んだけど、東京に出てこの方向性で進むと、いい作品はかけたかもしれないけど、その感受性と観察眼で増幅した怒りで自分をも傷つけていたんじゃないかな。

 最後の本人をモデルにしていた「玉島にて」は、朝ドラとかの映像作品での田辺写真館の楽しさの裏側をえがいていてどきっとした。あれは、没落した実家をもつ母の犠牲のうえにきずかれた楽しさだったのですね。成功した祖父の横暴さ、父のちゃらんぽらんなひ弱さが遠慮なくあばかれてますな。作家になった主人公と母は、戦後直後たよった岡山県玉島に行く。その一瞬は輝かしい美しさだった。しかし、親族も亡くなり縁とおくなった母の故郷は薄汚くそっけない。戦後の生活苦に疲れ果て、人への不信感をかかえた主人公は考えよどむ。しかし、これからは光のある暖かいほうへと願う。田辺聖子の小説は80年代にはガラッと軽妙に変わる。写実性はクリスタルボンボンや貝殻の石鹸といったぜいたくのあざやかな色彩を写す。それは時代に寄り添ったんだと思う。母が言ってて忘れられないことだけど、60年代は前半と後半はまるで違うと。これは多くの人が感じていたんじゃないかな。

 田辺聖子の作品に一貫しているのは、社会がふくむ暴力が弱いもの、かよわいものを踏みにじることに対する怒りだ。それは人間の獣性への好ましさとあきらめとを含んでいるような。それを古典と恋愛で読み解こうとした作家さんだと思う。そして、関西弁にこだわり身近な大阪の人たちを描いた。学校の回覧文集ではじまった、そういった人とのやりとりの個人性を大事にした作家さんだと思う。それがうたたかな抵抗であることを本人も自覚しててひっそりと去られたかもしれない。

 

感傷旅行 (角川文庫)

感傷旅行 (角川文庫)

 

 

 

 

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田辺聖子を改めて読む1

 先日、田辺聖子さんが亡くなった。NHKのニュースでは「感傷旅行」で芥川賞をとられたと悼まれていた。ちょっと、違和感があった。賞をもらったという切り口しかないのか。「私的生活」などの恋愛もの、古典をかいつまんで解説したもの、評伝、源氏物語の現代訳も手掛けてられる。映画になった池脇千鶴の名演がひかる「ジョゼと虎と魚と」、感想では最近の小説と思い込んでる人が多かった。彼女のしごとのいくつかは決して古びてはいない。

 テレビなどの表舞台に立たれなくなって久しいし、90代になられて同世代のファンのひとも亡くなったし、そんなもんだろうとかもとも思うけど。そういえば、その「感傷旅行」は読んでないなあと思った。それで、なつかしい、「苺をつぶしながら」、「私的生活」とともにをあらためて読み直してみた。

 「苺をつぶしながら」この語感すきだったな。ニュースでかちんときたとき、すぐ思い出したのがこの小説だ。いちごがすっぱかったなんて今の人はわかるかな。それをさとうとミルクでぐちゃぐちゃにして食べる。その生々しさ、自由に生きる女性の象徴だ。友人である、男を食い散らかしたとされる女の末路も毅然とえがかれていて、甘いだけの恋愛小説ではない。

 その前編の「私的生活」は結婚に向かない男女の結婚のあとさきを過不足なく描いている。今回、読んで、覚えていて驚いた。あのころはお金に不自由していたのもあって、何度も読み返していたのもあるけど、それだけではなく、教訓も刻み付けていたんだと思う。世間知らずの私が、たまに男におだてられたしても、男の情けなさとかに気づいて、有頂天にならなかったのは、これらの小説を読んでいたからもあったんだよなって感じた。

 今回読んで改めて気が付いたのは、女の仕事場のマンションに行って日記を盗み見たりの男のあまりにも暴力的な行為をきちんと描かれていたことですね。そこがその男の魅力でもあり、欠点でもある。そのことを象徴する猿山の描写が秀逸だ。獣としての人間が作った社会の暴力性、それにしっくりいかない人たちがが感じるおかしみ、あわれみ。

 最後に夫は、妻が別れても、どうしてももっていきたいと大切にしていた亡き姑の遺品を打ち砕く。ここまでかと思った。母の中の女性性の象徴で、欲望のつよい彼は、それに対するあこがれと不満があったんだと思い知らされた。支配と愛のごちゃまぜがわからない男の幼稚さ。結婚は経済のからんだパートナーシップだと思う。男性性と女性性をお互いに求めるのは恋愛で、結婚という形に持ち込んだら嘘になってしまうという厳然とした事実。 

 今回、亡くなられたあと、読書好きの年上の友人と話したとき、やはり、これらの恋愛小説のはなしになった。あのころ書店でバイトしてて、田辺聖子の円熟期のこれらの本が同じ時代に生きた、30前後の女性たちに楽しんで読まれているのを見た。それは幸せなことだったなっと思った。

 

私的生活 (講談社文庫)

私的生活 (講談社文庫)

 

 

苺をつぶしながら (講談社文庫)

苺をつぶしながら (講談社文庫)

 

 

  改めて、近年読み続けられているらしい。おもに恋愛まんがを読んでいる人たちが読者層だったという記事を読んだりした。

 

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻8「宇治十帖」テーマは繰り返される。

 

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 源氏物語のラスト、「宇治十帖」は紫式部の作品なのかと、ずっと源氏オタクのなかで言われています。というのは、登場人物が欠点のある人ばかりであること、今までの華やかさがないからだと思います。書き切れてないところも多いですし。でも、今までいろんな形で源氏を読んできた私としては、紫式部が書いたんじゃないかと思っています。

 現代訳もある瀬戸内寂聴さんは宇治十帖は紫式部が書いた、私が出家したからわかる。出家という形で世の中から一歩はみだしたからだって言っておられます。それはわからないですが、晩年、近松門左衛門がそれまでの男女の痛切な愛情を描いたものから、一転、不条理劇「女殺し油地獄」を書いたように、しがらみから居直って、書きたいものを書いたんじゃないかと思います。まして、長編の書き方も見つけたわけですし。

 ちなみに「女殺し油地獄」は陰気な話ってことで、明治まで舞台にかからなかったらしいです。私は好きなんですけどね。映像で見たんですけど、人形が油にまみれてのたうちまわるのがすごい芸を感じます。この前見た、五社英雄の映画も好きですね。樋口可南子藤谷美和子の演技がすばらしい。だいぶ、翻案されていますが、原作の力が演技を引き出してます。

 宇治十帖は設定が最初から決まっていて、とても、近代的です。祝祭的な最期がないのも特異です。最初の登場人物は宇治の別荘に暮らしている不遇な皇族と母を亡くした二人の娘です。ここで、あれって思いませんか。若菜のふたりの皇女の話が繰り返されているんですね。

 女二宮の息子、薫は生まれのためか悩みがふかく、教養人である八条宮のところに学問や仏教を学びにいきます。そうしているうちに娘のひとり大君に恋をするのですね。ところが彼女は男嫌いで、彼を拒んで死んでしまいます。なぜか、近くにいる父がろくでもないからですね。現代でも、田舎に家族をむりやり連れてきて孤立させる、理屈っぽいインテリで家族を不幸にしてるやつって結構いますよね。

 ここで、私は、紫式部の生い立ちが源氏の物語の低層に反映されて、やっと表に出てきたと思っています。彼女は不遇なインテリで地方役人をしていた男の娘なんですね。母を早く亡くし、たった一人の姉も若くして亡くしています。彼女が描きたかったのは父というものが含む世の中なんだと思います。物語を通してそういった不合理にこたえをもとめていたんじゃないかな。権力やらシステムで人がゆがめられていく。

 宇治十帖は主人公が観念のせかいの人なんで、彼女が亡くなると面影を求めて、妹の中君、腹違いの妹の浮舟とさまよっていきます。自分のなかの幻想を求めてるんで、もてるわけがない。それらの人にことごとく裏切られる。面影を求める人をリアルに描くとそうなるんです。

 ヒロインは浮舟です。皇女の理想を求め、教養がないとか、幼いとか、薫は常に身分の低い彼女を貶めます。浮舟は誠実であわれな薫を気の毒に思いますが、華やかで欲望に忠実な源氏の子孫、匂宮にひかれていきます。でも、彼は快楽主義者なんですね。常に欠落を埋めていくんです。そして、どちらにも大切にされないと悟って、彼女は自殺をはかってしまう。そして、若いがゆえに死にきれず出家します。今まで出てこなった抗議するヒロインなのですね。今までついてきた読者に刃を突きつける。

 私は浮舟のお母さんが結構好きですね。この物語の救いかもしれません。彼女は八条宮の妻の親せきの女中で、彼女をなくした宮様に同情してくっつくのですが、妊娠したら、おれは仏教を研究する、女は絶ったからって、粗末に捨てられてしまいます。それでも、さっさと裕福な地方役人とくっつくのですね。その中でも娘に愛情深く接します。美女になった娘が田舎の有力な人に求婚されるのですが、力のある夫の娘に乗り換えられます。そして、夫や実の娘でもそういうことが平気な人をほっといて娘と上京するのです。愛人になった娘に妥協はもとめますが、意思のある人です。モデルがいたのかもしれませんね。

 しかし、世の中は厳しい。せっかく仏門にはいったのに、薫に見つけられたことを知った助けた人たちは還俗をうながします。有力者の愛人であることのほうが尊いってことなんです。これは幼くして妻にされる若紫と同じですね。権力の力でいくらでも人生はたわめられるのです。物語はその答えをもとめて始められました。

 つらつら、源氏物語について書いてみましたが、若菜が一番難しかったかな。この時代の恋愛は、男が押しかけることから始まるからです。今でもごはん食べただけで、好きにしていいんだという男がいるくらいなんで、女二宮の欲望と絶望の加減が説明しづらいなっと思うし。自分の中の鈍感さをあぶりだされるようでつらかった。やはり、「若菜」が源氏物語のクライマックスなんだと思います。書いてみて、たしかに以前より柏木はわかったような気がします。世の中に甘やかされて、承認と愛情がごちゃ混ぜになっている男ですね。相手をみてないので、愛されないわけがわからないので破滅的になってしまう。

 このつらつらした文章は主に学生時代とその後の読書の感想みたいなもんなんですけど、その後の新しい研究とかあったら教えてください。まず、最近、映画「愛がなんだ」で注目した角田光代さんの「源氏物語」の現代訳読んでみたいです。

 この文章はやっとこさ書いたので、これからも修正もちょこちょこしていこうと思ってます。では、読んでくれてありがとうございます。

 

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 宇治十帖を時代変化的に語ったものです。男の作った社会を支持してるのは女なんだってことを書きました。

 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

 これから読んでみたい本です。源氏物語の現代訳はきっと若い人への入門編になると思うよ。でも高いんですよね。図書館にあるかな。

 

 

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「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻7「若菜」陰々滅滅編

 

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 「若菜」では、女三宮という女性が登場します。女三宮は源氏の元天皇の兄の娘です。兄が出家にあったって、有力者である源氏の正妻にという話が持ち上がります。最初はめんどくさいと断っていたのですが、藤壺のめいで美女であるということを知って受け入れます。源氏は幼いときにいっしょにすごした、母に似ているとされる、若いころの藤壺に執着しているわけです。それなので、ついつい、彼女を正妻にしてしまいます。容貌が似てるだけで、これがとんでもない女性でした。

 つまんない人だったんで、早々と源氏にあきられます。すごいのは着物のすそに生理の血がべったりついてても気にしないと書かれていることですね。これでわかるのは、それを注意する母を早く亡くしていたことです。そして、父親にたまにペットのようにかわいがられる。そして、皇女さまだから、侍女たちはかしこまっている。母親がわりになってくれる人もいなかったんですね。これはネグレクトされた人なんだと思います。

 その彼女を頭中将の息子の柏木が恋焦がれます。この人は、この皇女さまと結婚できなかったんで、その姉の女二宮と結婚しました。でも、すごく雑に扱うんです。女二宮も問題があります。愛されなかった女性の娘なんで、すごく、いじけてるんです。でも、おかあさんは大切に育てました。だから、きちっとした人で、愛情豊かなんです。それでも、柏木は気に入らない。なぜか、父に愛されていなかったからです。父である人は天皇で、そして、それは権力を意味するのです。ここで、物語のなかで父なるものと権力がむすびつきます。社会の枠組みは男が作ったものだからですね。これが「若菜」の重要性だと思います。権力に愛されていること、それが自分の存在が認められていることなんですね。紫式部が宮中で見聞きしたことから、社会というものを意識したんだと思います。こういった、おろかな若者がたくさんいたんではないですか。

 さて、柏木は権力者である源氏の妻になった女三宮にますます執着します。ある日、黒猫が彼女の部屋の御簾をあげてしまい、彼女の姿が丸見えになります。そして、柏木は密通を決意します。大和和紀のまんがで猫は印象的ですね。それは女三宮のなかの自然を象徴しているからです。

 侍女たちは嫌われた源氏への執着がないこと、密通した柏木に愛情がわかないことをいぶかしがります。ただただ、叱られることを恐れています。子供のままなので男女の愛情がわからないのですね。それに、彼女にしたら襲われたんですからね。事前のやりとりもなく、だからといって、拒むことも知らない。空蝉や藤壺は必死に二度目はこばんでいるのですから、できないわけではないです。周りも柏木もそうですが、男女関係がレイプに近いかたちで始まることがよくあったと思います。身分のひくい女性が、がまんして取引していく形が多かったのでしょう。皇女さまなんですけど、夫に軽んじられ、周りに訴えることもできない。それに、柏木もまわり気づかないで、なんでもいうことを聞く意志のない人っていう思い込みがあるのでしょう。

 密通が発覚したときの描写が残酷です。源氏の前で男の着物のなごりの帯もかくそうともしないほど、鈍感だったのです。柏木は密通が発覚して源氏に嫌われたこと、女三宮に愛されなかったショックで悶え死にます。紫式部は現実で見聞きしたことから、源氏と藤壺の話を再現したかったんでしょう。

 そして、女三宮に子供ができます。源氏は若き日の自分と藤壺の密通の罪を思います。この辺りは歴史的に父桐壺帝への罪悪感だと解釈されていますが、それだけではないなと思っています。父である源氏の兄の不幸が発端ではないかな。父に愛されず、妻に若くして去られる。社会的には源氏に追い落とされる。だからといって、対等ではない、子である娘たちに気ままにふるまっていいわけはないでしょう。女三宮も若さが対等な男と結婚していたら、それなりに成長していたかもしれません。父なる権力者の妻になったからの悲劇です。

 自分が源氏の母への面影に過ぎなかったと知った、かつての若紫、妻の紫の上は出家して死んでしまいます。源氏は彼女そのものを愛していたことを知って絶望します。腕には出家してさっさと育児放棄した女三宮のこどもが抱かれています。宗教という確とした依存先を見つけた彼女は心おだやかなようですが。しかし、源氏の死で終わった物語はまだまだ終わりません。母恋いの物語が終わり、父なるものを追求した宇治十帖です。

 

 

 

 

 

 

 

 

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻6「玉鬘」誘惑編

 

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大学のゼミで主に勉強してたのは「玉鬘」の巻です。なぜか、ゼミの先生がこの巻であることを発見したからですね。でも、実際、この巻は波乱万丈でとても面白い巻でもあるのです。

 ヒロインは物の怪に取り殺された女性夕顔の娘、玉鬘です。ちなみに玉鬘とは美しい長い髪のことだそうです。思いにならない人生を生きる彼女を髪の流れにたとえた歌があるからだそうです。彼女は源氏の友人、頭中将の娘さんなのですが、正妻がこわい頭中将がぐずぐずしているあいだに、侍女で地方役人になった夫を持った人にひきとられ九州でそだちます。そして、たいへんな美女に育った彼女は地元のいやらしい金持ちに結婚をせまられます。忠義心のあつい侍女の夫もなくなっていて、絶体絶命、侍女家族ともども京都に逃げ帰ります。しかし、都のご縁も薄くなった一家は、奈良の長谷寺に救いを求めて参拝する。そこから、話がはじまります。

 この導入の長谷寺の参拝編がすばらしい。長谷寺の参道は、にぎやかで有名でした。古代から交通の要所で宗教上でたいせつな場所でもあります。今はぼたんの寺として有名です。平安の様式をのこした階段状の屋根付きの参道から美しい花々をめでられます。

 平安当時、お堂でお経をとなえながら、何日も雑魚寝して願いを祈願したようです。その真っ暗な男女入り乱れて雑多な中、侍女のひとりが、確か、おトイレに立って、ある人と再会したのです。その人は、源氏に引きとられていた夕顔の侍女でした。彼女も姫君を心配してお参りしていたのです。このあたりの風俗をまじえた描写いいですね。ぐっときます。

 そして、美しい姫君に再会した侍女は、父の頭中将に会わせるために源氏に後ろ盾を頼むのですね。そして、表向きは源氏の娘としてひきとられます。田舎の落ちぶれたお姫様なんて相手にしてくれないからです。

 とにかく、美しい姫君なので源氏はわくわくします。苦労をしたひとですから聡明です。明るい人柄もすばらしい。侍女はあんなすてきな夕顔さまが生きていたら、源氏の妻のひとりとして大切にされていた、ましてこんなに美しい娘さんなんだからと源氏をそそのかします。りっぱな父として仮想している娘は、その立場がつらくて辛くてたまらない。源氏の娘なので求婚者もどんどん寄ってくる。いつ、ほんとの父に会わせてくれるのだろう。そこのやりとりが滑稽でたまらないです。

 娘扱いだから求婚者とちがい、美しい姿は見放題です。そして、ある晩の暗闇のなか、源氏は後ろから玉鬘を抱きすくめます。そのとき、はっとします。骨格が夕顔とそっくりなのです。母と違い、かっきりとした美女なのですが、体は似ているのです。夕顔との情事を思い出すのです。

 ゼミの先生はこのところを何度も説明していました。紫式部はほんとにすごいと。母の若いときに娘は似てくる。それは妻の若いときを思い出させる。私はは娘がいるから、そのどきっとすることがわかる。女である紫式部はなぜわかるんだ。中年期の父と娘の関係にあることらしいです。それは中年期の男におこる若さへの執着が底にあるのではないかなと、今の私は思います。若い日に愛した妻への情熱です。先生は人生をかけて、そのことを発見した。たったそれだけって思いますか。以前に書いた通り、研究とは人々の知の集合知なのです。なぜ、ストーリーが行ったり来たりするのか。源氏の人柄が一定ではないのはなぜか。この物語は小説というもののできていく過程であるのがなぜか。

 そこで母恋いの物語に隠されていた父と娘の関係が浮かび上がってきます。母に似た女性と結婚する。そして、妻に似た娘に執着する。どちらの関係にも生身の人間では満たされない思いがあります。

 この中年期の男のまなざしが、あたらしい悲劇を生みだします。「若菜」上下の巻です。玉鬘はコメディですが、若菜は痛切な悲劇です。ゼミの先生は若菜がわかったら、源氏物語がわかるんだとおっしゃってました。で、若菜の巻へ。

 その前に蛇足ですが、玉鬘のその後を記しておきます。源氏が怖くなった玉鬘は実の父に会うことを直訴します。このあたりが人生を切り開く勇気のある玉鬘のいいところです。ほかの源氏研究の先生も玉鬘が大好きでした。女子大生にあらまほしき人物像ですね。そして、ふたりの父のつてを使って、宮中にあがって天皇の侍女になります。ですが、ひげ黒というごっついおっさんと結婚してしまいます。結局、パパ的なしたたかな人につかまるのですね。ほんと紫式部は底意地が悪い。苦労を切り抜けていくのが持ち味のヒロインなんで物語的には正しいんですが。子育てが終わったら宮中に再就職するとこなんかも、女子大好みですね。

 若菜は陰気で不気味な女三宮の物語です。続く。

 

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻5「若紫」転換編

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 「若紫」は母に亡くなられ、父に冷たくされている美少女が登場します。京都郊外の北山の寺にいる少女の愛らしさ、哀れさ、源氏物語の屈指の美しい場面です。それを覗き見る不幸な青年の純情。青春の哀愁です。そして、少女は青年に救い出されます。あまたの少女漫画で描かれた素敵なお兄さんに出会って将来結婚するという話の元祖です。乙女のあこがれでありましょう。

 光源氏は、少女が心の悩みで世話になっている寺の僧の姪だと知ります。僧は富豪で身分の高い青年が引き取ることを喜びます。しかし、なぜか、正面から少女を育てている未亡人の妹の祖母、尼君に、将来、妻にするからって説得しようとします。僧がよかったなっていうぐらいだから、強引にやっていいことなんです。

 若いときは意味がわからなかった。そこを飛ばしてロマンチックに筋を動かしたほうがすきっとします。真面目さを強調しているのでしょうか。それもあります。でも、尼君の断りの場面は理屈っぽくて退屈なんです。田辺聖子版でも橋本治版でもあまたの翻訳でも、ここはきちっと描かれています。なぜか、紫式部が間違った行為だと思っているからですね。だから、自分に言い訳してるんです。

 どうしても、この物語が書きたい。でも、なんか間違っている気がする。女である彼女がゆるせないんです。そこに少女が男のおもちゃにされかねないという、ファンタジーに終われない大人の目線があるのです。まだ、こどもなのに。尼君が亡くなると渡りをつけていた侍女をそそのかし男は少女を盗み取ります。少女はほんとに幸せになったのでしょうか。続きが読みたい。

 そもそも作者がそう思ったのです。そして、はたと、こういうことをしでかした青年はどんな生い立ちなんだろうと知りたくなったんです。なんでこんなことをしたんだと。魅力的な男に思えるが。そして、素敵な恋愛の相手役の記号でしかなかった男の内面を描きたいという欲望が生まれたんです。もちろん、少女の夢をえがいたこの小説は読者に大評判になり、続きをせがまれたんですが。

 それで彼は身分の低い後宮の女性の息子で、天皇に愛された母は女たちの嫉妬で取り殺された。そして、彼は母の面影を求めているという源氏物語の冒頭「桐壺」が書かれました。

 その後、彼は父が探し出した母そっくりの義理の母の皇女「藤壺」に恋して、子供を産ますというとんでもない話に発展します。そして、恋にやぶれて、その姪の少女「紫」を妻にしたとつながってきます。それが、ロマンチックに描かれ、男性にも評判になります。ついには、紫式部は時の権力者の藤原道長の娘の侍女にまで上り詰めます。

 この母を求める話は国文学の世界では「紫のゆかり」といいます。源氏の運命の女性を象徴する花が紫色だからですね。ゆえに作者のあだ名も紫式部なんですが。で、世間の評価では、書かれた時から、母恋い小説だとされていると思います。だから、男たちも感動したんです。でも、作者は女性なんです。父と娘との問題っていう、女には身近な話が背景にあるのです。それが源氏物語を長年研究し、読み込んだ人にはわかってくるんです。だから、尼君との対決の場面が重要になってくるんです。それが私が大学で知った源氏物語の秘密です。では、それについて。

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桐の花です。なつ、咲きます

 

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻4「若紫」展開編

 

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 巻2で書いた通り、若紫が書かれたあと源氏物語は長編化したというのはほぼ事実だと断定されています。これは千年にわたる源氏研究者の集合知です。

 源氏物語は貴族が落ちぶれて平家物語などの琵琶法師が音楽とともに語る軍記物がはやると廃れました。庶民が楽しめる物語が主流になったからです。それが復活するのは豊臣秀吉が関白になったころです。なぜか、秀吉が武士の棟梁、将軍になれなくて貴族の親玉になったからですね。そこで、周囲の人が貴族文化の基本にある源氏物語をまなぶ必要ができた。前田利家が「源氏って面白いよね。この年になっても楽しめる深い話だ」って言ったことが歴史書に残っているそうです。

 源氏物語は貴族に教えてもらわないとわからなかったのでいい飯のたねでした。 なぜか、それはすたれた古い言葉で書かれていたからもあるのですが、ともかく文章がややこしい。主語がわからない。私は世間がせまいので、あんたは主語がなってないとよく家族に注意されますが、共通認識だっていう脳のバグです。価値観が違う人にはきちんと説明が必要です。

 それでわかったのは、最初の読者が、ほとんどが京都近辺のたぶん1万にもいないだろう貴族だったからです。共通の認識のなかでわかるので、省略されていることが多いからです。お祭りといえば葵祭りだし、春はあけぼのなんです。古い和歌の引用なんかも多い。あと自然描写が心理描写に重なっている詩的なこともあります。高度な文芸を読みこなしてきた人が読者だったからです。

 昔、私が読んだ感じは、源氏より、坊さんが庶民に語る種本の、時代の古い今昔物語のほうが、よっぽどわかりやすいです。漢語まじりで簡潔です。だから、試験にたくさん出てくる。学生さん頑張ってね。て、いまどき、古文の試験とらないか。でも、ロングセラーになったのが偉大だったのです。色々なところに引用され雅な文化の基礎になりました。

 その後、江戸時代、娘を天皇にやったり、嫁にもらったりした徳川将軍家が公家文化をとりこんで徐々に読者が増えてきます。そして、例の国学本居宣長です。わけのわからない「もののあわれ」を言い出した人って日本史で覚えませんでしたか。日本という国を意識し、天皇尊いなんてイデオロギーをふりまわす人々のひとりです。京都がすてきな観光地化されたっていうのもあると私はにらんでいるのですが。

 このころから源氏物語の研究が進んだみたいです。そのころの物語は時系列がばらばらってことはないんです。つじつまが合わないってこともないのです。というのは、木版という印刷がふつうになって本が商品化されたからですね。つじつまのわからないことを書いたら本が売れないんです。同人誌じゃないから、読者が飛躍的にふえてみんなに分かりやすい文章を求めるようになったからです。そして、源氏オタクが増えて、ああだこうだと言い合うようになりました。

 明治になると源氏物語はすたれます。かの米国留学生、津田梅子が不道徳な本って看破したように一夫多妻なんてナンセンスになりました。それ以上に不道徳な小説だからです。「若紫」なんかロリコン短編ですからね。しかし、この短編があるから源氏は大長編になったのです。それは紫式部ロリコンをいいことだと思っていなかったからです。続く。