前回の続きのようなもんです。今、日本がアメリカと戦争したことを知らない若い人が増えているらしい。なぜなら、学校で現近代史をはしょっているからです。アメリカをどう扱うかということで、現場が主義主張の場になりがちなので、避けられているということもありましょう。
もうひとつは、上の世代の人と雑談をすることが、無くなったためだと思っています。子どもも大人も時間を小刻みに、動かす時代です。なんだか、世間話に付き合ってられないやっていうのが、本音ではないかな。大抵、愚痴やら偏見やら混じりだしね。
学校で教える歴史は、大切だと思います。だから、淡々と伝えてほしい。伝える人が、偏らないか、怖がるのは、違うと思う。
そして、その裏にあったこと、個人個人で違う体験の固まりも、必要なのだと思います。それは、建前の歴史、そして、個人の曖昧で不確かな話、その両方があってこそ、自分の置かれた立ち位置が、確認されるのではないかな。
さて、ある集落で、織田信長の一向一揆の虐殺を供養する法要が、最近まで続けられてたそうです。五百年も続けられるって、うっとしいですね。でも、その小さな集落では、とても、大切な歴史だったんだと思います。人を大量に殺して、解決するのは間違っているという考え方は、きっと、村の人に影響を与えてるのだと思います。
ただ、知っていると、縛られます。過去という物は、人を縛る物なのです。うっとしいんです。特に、自分の生まれる前のこととかはです。
親がどんな仕事をしていたこと、どんな恋愛をして、結ばれたことにも、縛られます。まして、じいさんが、どんな仕事をしていたこと、ご近所のおねいさんが、中学校で、同じ部活をしていたことまで、知らなくていいんです。それは自分を縛ることなのですから。そんな、最近の過去でも、それは、語られなくても、自分というものに影響してくるんです。
ただ、じいさんが、妙に時間に厳しくて、怒鳴るのは、朝、新聞配達をしていて、怒鳴られていたからだと、わかると、しょうがないなと、感じられます。親が、お姉さんから、部活の顧問の悪い評判を聞いて、心配していたりします。お姉さんが、部活の先輩だとわかれば、直接聞いて、それが、要らない心配か、どうか、わかります。身近なことでも、知っていると、楽な部分があります。
多分、歴史を知るということは、縛られるということと、自分を取り巻くことの理由のひとつが分かるということなのだと思います。縛られないということは、自由ということではないよ。
自分を取り巻く地図が、分かっていてこそ、次に行くところが、どんなところか、だいたい、知ることができます。その場を立ち去ることも、踏みとどまることも選べます。そして、相手の立ち位置が、分かれば、戦うことも、避けることも、尊重することも、ついていくこともできます。相手だけが、地図をもっていたら、従うしかないです。どこに、連れて行かれても、文句はいえないです。
歴史を学ぶということは、相手の描いた地図を知ることです。そして、それをたたき台にして、自分の地図をつくることじゃないかと思っています。
なんやら、理屈ぽいことを、書きました。うん、人の過去を聞くということは、縛られもするけど、なかなか、私は、役に立ったよと、いうことを、長々といってるだけかな。これは。