最新作の「中動態の世界 意志と責任の考古学」が評判で、好奇心はあったので、図書館でさがしたら、やはり、読みたかった、前作があったので読んでみました。
面白かったです。もっと、早く、読めばよかった。けっこう、今まで、言語化できなかったことが書かれていて、ふに落ちました。まず、人間は旅しているのが、普通で、定着しだしたのは、ごく最近だってこと、表題の退屈を知るきっかけになったことが、しっかりと今までの研究を踏まえて書かかれていました。
私が、気晴らしに散歩に行くのが趣味なのも、当たり前のことなんですね。体力、気力はへたれで、海外とかはいけないので、ご近所を歴史をたよりに、旅しています。先日、このブログでも書いた、きだみのるのゴミ屋敷の件も納得です。移動する時は、ゴミが溜まったときだったのか。人間はすぐ、先祖返りしてしまうもんなんですか。
読んでいて、学生時代の友達から、また、親しく付き合いたいと、急に、電話がかかってきたことを思い出しました。懐かしい話をいくつかしたのですが、「とても退屈なの」という言葉に引っかかって、なんとなく、さけてしまったのです。
お子さんが、中学生と聞き、暇ってありえないって思いました。大人への巣立ちの時期じゃないですか。見守りという親の仕事のキモの時期で、退屈どころではないでしょう。こどもへの関心が冷たすぎるって、不思議でした。その後、住所が転々と変わっていき、連絡が取れなくなりました。
とても、エリートのひとと結婚したのですが、彼が、有名大学の先生に転職したあたりで、あやうさを感じてました。とても、美しい高松のひとで、さぬきうどんの話をたくさんしたかな。それから、「退屈」ってことばに敏感です。
そんななかで、ハイデッカーの退屈論への考察は、とても説得力がありました。ひとが電車待ちといった、やるべきとされていることを中断されている退屈。そして、パーティとかで、気晴らししてるときでも、かんじる退屈。そして、なんとなく、退屈というとき。一番目は、日常が動かないことへの恐怖かな。二番目は日常。そして、三番目は、日常が固まってしまった時だと思います。三番目が、私がこわいって思ったかたちですね。
そういってる、ハイディカーって、ハンナ・アーレントの映画で見たけど、彼女と不倫したり、ナチスに、協力したりしてますね。彼にとって、退屈って切実な問題だったんじゃないかな。ある程度の豊かさを達成したけど、そのころの閉塞感のあるドイツの社会が、反映もしてるのでしょうね。ここに書かれてる哲学書、全然、読んでないんで、そんなに深くは読めてないかもしれません。だから、反論もできないんですけど。納得させる力のある本ですね。
そういえば、カルフォルニアで、まさに、パーティ、クリスマスパーティで、テロの乱射事件を起こしたムスリムの夫婦がいましたね。
夫は、確か、なかなかの高学歴で高収入の福祉関係の仕事でした。ネットでパキスタンだかの、名門のお嬢さんと結婚して。確か、赤ちゃんがいたと思います。しんどいけど、子供が一番愛しい時期ですよね。
家に、通販で買った武器がいっぱいだったと報道されていました。ISとかの忠誠より、その武器の置きどころがなくて、犯行におよんだんじゃないかって、感じましたけど。この本のなかで消費のシステムの恐ろしさが描かれてますけど、これですよね。
彼ら、ことばができなくて、子育てがたいへんだったろうし、気晴らしを知らなかったのかな。でも、クリスマスパーティに呼んだひとたちも、それなりに配慮したと思います。意地悪もしたかもしれませんが、たぶん、殺されるほどじゃなかったでしょう。武器への依存がなかったら、トラブルで済んだんじゃないかな。
夫は、学生時代から、ぐれてたようだし、色々とそこに向かった、動かしようのない偶然が重なったんでしょうけど。そこまでいたらなくても、ひとが閉塞感をかんじる瞬間って、いっぱい、あるわけで。そんなことをしっかりと考えるヒントになりました。
- 作者: 國分功一郎
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