oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

私は太宰治が読めない

 村上春樹のエッセイ「村上ラヂオ」で、あったかい子犬をだいた気分になると、写真に写るのがこわくないという話がある。明恵上人の犬を見ながら、私は、考えていた。あったかい子犬とは何か。たぶん、そのエッセイのなかに、彼が太宰治がきらいだという話もあったと思う。だけど、文学上では、重要な作家に思えるので、気になってしょうがないそうだ。実は、わたしもそうで、以外とこういう人は多いのかもしれない。それとも、村上春樹がすきな人は、そういう傾向があるのかもしれない。

 いわゆる、私の世代それより少し上の文学好きのひとは、必ず太宰治を読んでいた。学生時代、熱烈な太宰ファンの友だちにすすめられ、読もうとしたが、走れメロスなど、甘ったれにみえて、共感できなかった。なんだか、その人が、盗みぐせがあったことを知ったので、よけいにいやになった。そのころ、ある人が、若いときはいいとおもうけど、大人になるとあほらしくて、あれは、青春の文学だよっと言ってくれて、ほっとしたような気がする。しかしながら、映像になったりすると、やはり、たいしたもんだと、読みたくなる。吉本隆明さんが最後の講演で、太宰の「善蔵について」という短編を紹介されていて、テーマが、私が長い間モヤモヤしていたことと知った。吉本さんは、太宰のデビューのころからの読者で、直接会った人でもある。それで、そのときも、太宰の「御伽草子」を読んでみようとしたが、やはり、読めなかった。しかしながら、こんなに気になるということは、何かしら、わたしにとって、大切なことが、含まれているのである。だいたい、太宰といっているってことは、好きと言ってもいいかもしれない。

 村上春樹は、朗読テープを聞いてまで、太宰治を読んでいるらしい。さすが、大小説家にしかなれない、業を背負った人だと思う。そういえば、村上文学には、具体的な母というものが、でてこない。ただ、母がいないとき、事件は起こるのである。不思議な電話があったり、同級生と関係を持とうとしたら、母に頼まれたおばさんにじゃまされたりする。あったかい子犬というものは、明恵の伝記をみても、母という観念にどうにも関係するように思える。そして、太宰治のなかにあって、村上春樹をおびえさせるものとは、なんだろう。そんなことをぼんやりと考えている。まあ、ネットの隅っこで、こんなとりとめないことを考えてても、アホみたいなんですが。展覧会に行きながら、私は村上春樹を考えていたのである。村上春樹が、明恵の本を書いた河合隼雄に会いにいったのは、偶然ではないよ。

 

村上ラヂオ (新潮文庫)

村上ラヂオ (新潮文庫)