oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

太田道灌の終焉地を行く

 


 前回、大庭城に行ったとき、これは小田原城に負けない城だと感動しました。

そして、それの基礎を作ったのが太田道灌と知りました。

 今、楽しんでる「新九郎、奔る!」の太田道灌の描写がとても面白い。

で、改めて伊勢原太田道灌首塚に行ってみました。

 

 太田道灌は川越に遊びに行ったとき銅像があって、埼玉の人じゃないか。

なんで伊勢原で道灌まつりなんかやっているんだと感じてました。今回は調べて初めて納得しました。

伊勢原は鎌倉で落ちぶれた主君である扇谷上杉家がいた場所だったんですね。伊勢原東海大病院のあたりは糟屋という地名でまわりに大山街道が走る古い集落があるのです。そこに扇谷上杉家が入り込んでいたわけです。

 

 元々いた糟屋氏は義家の前九年の役の英雄で有数の田園だったそのあたりに定着しました。話はそれますが、その後、「鎌倉殿の13人」に出てくる比企家の婿になり、一緒に滅ばされます。

吾妻鏡ではさらっと記述されていますが、生き残った人たちが、京都で愚管抄慈円にその有様を報告して、比企家の生々しい最後が残ったようです。

 で、ここは北条氏に相続され、扇谷上杉の土地になったようです。

 

 太田道灌の終焉の地である上糟屋です。今、お城は産能大という大学になっています。奥に建物を映しこみました。城があったあたりです。堀跡もあります。

 

 太田道灌はお風呂で殺されたようです。このあたりは七沢温泉というのがあり、ここにも鉱泉でもあったのかもしれません。元からあったのかもしれませんが、応仁の乱以降に改造されているので殺伐とした作りです。

 

上糟屋神社。糟屋氏の神社です。糟屋氏は元々佐伯氏で、東大寺の土木を請け負った人々だったみたいです。木材を切っていたのでしょう。お隣の秦野を開いた波多野氏も佐伯氏で何か関係があったのかもしれません。

 

 で、首塚です。

近くに江戸時代さかえた大山参りの街道が通っています。

どうやら、江戸城を作った人として紹介され、観光の地になっていたようです。

これでお祭りの意味がわかりました。最近、武者行列をしたくてできたもんみたいですね。

 

室町かわかりませんが、古い墓がたくさんあります。高野山以外でこんなにたくさんあるのか。

近くに七人塚とかあって一緒にいた多くの人が殺されたようです。

 

 その後、扇谷上杉は太田道灌が築いた江戸城に移るのですが、天才がやっとこさ占領した土地が維持できるわけがない。連中はずいぶんと後悔したのでしょう。しかし、戦争の人殺しってのは癖になるんだな。

 

太田道灌の遺体はどうやら下糟屋の洞昌院で僧侶をしていた叔父に渡されたようです。

ここには太田道灌の画像もあるようです。

下糟屋にほかに高部神社というのと、丸山城跡というのがあります。ここは鎌倉時代に糟屋氏が新たに館を構えた場所です。

 鎌倉の館は住宅地なんで守りに弱いけど、田園に近いです。景色もよくて南向きで水はけもよいです。今は国道の246号線、元の大山街道沿いなので面影ないですけど。近くに東海大病院がそびえています。

胴塚です。糟屋は半島のような尾根で、下に渋田川という川が流れているのですが、その川沿いにあります。

古い治水の痕跡があります。いつごろのもんなんでしょう。

 

首塚の向かいの大山です。伊勢原の象徴の信仰の山です。

 

 太田道灌の遺跡はバスもありますが、伊勢原駅から不便です。どちらも止めやすい駐車場もあるし、古い集落が面白いと感じるのなら、ドライブがいいかもしれません。

太田道灌の記録はほとんど失われていますが、城跡なんかに行くと大した人物なんだなって感じます。興味深い人です。

 

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