NHKで対談していてケン・ローチと是枝裕和の対談が引っ掛かっていたので、それを書き起こして過筆を加えて新書にした「家族と社会が壊れるとき」を読んでみた。
面白いと思ったのは、わざわざ、ケン・ローチがイギリスの労働階級の人をしろうとでも使っていることだ。なんでも食べるものも糖と油のあるもの多くて、体型も違うらしい。ケン・ローチは社会主義者で労働階級の人で、自分たちの立場をずっと描いてきた人だ。
私はそこまではと是枝監督は言っていたが、思い出した。「万引き家族」で樹木希林のインタビューで記憶に引っかかっていることがある。彼女は是枝監督を筋金入りの貧乏人出身だよねってと語る。
でも、父役のリリー・フランキーのことをこうもいっていた。
「万引きを仕事にするような人は教育がないから声が甲高いのよね。」
そうなのだ、リリー・フランキーはインテリなので考えながらか、聲を低く発するのだ。はっとした。貧乏人は威圧するように聲が甲高い。日本でもくっきりとしないけれど、階級はあるのだ。
しかしですね。そうすると、万引き家族の結末はないなって感じなのですよね。きっと、だらだらと彼らは万引きして生きていくように思う。
たぶん、コメディになってしまう。何かの形で辞めるかもしれんけど。
かつて、ムー一族とかの、はちゃめちゃコメディを得意とした樹木希林が、シリアスな演技をしているって、庶民というものの描き方が変わったってことですかね。年を取ったっていうのもあるけど。
かつては、子供が真っ当な道を行くために、公に託すかたちでの親離れする知性は描かれないと思う。
それは是枝監督自身が言ってたように、犯罪を罰するという事が彼の中に組み込まれているんだなあ。そして、犯罪を裁かないケン・ローチを羨ましいとも。
それに対するケン・ローチの答えは明確だ。富裕層が合法的という形で、人でなしなことをしている。それに対する自然な反応が盗むことや非合法なテロだ。
まったく、その通り。私は、虐げられた人が盗むのは健康な反応だと思う。いじめられ、さげすまされたとき、ちょっとした意地悪がはじまる。
まあ、大概はもっとさげすまれ、すさんでいくのだけど。しかし、追い詰められるっていうのはそういう事なんだと思う。
それを踏まえて、かつては、日本でもエンタメの世界では、滑稽なもの、致し方ないものとして犯罪が描かれていたのだろうと思う。ケン・ローチの過去作でも痛快だったり、ドラマチックだったりで、その揺れが彼の作品の魅力らしい。
彼が割り切れるのはヨーロッパで続いた、もう何百年も続いた格差がかかわってくるのだろう。映画「マイフェアレディー」で描かれたようにコックニーというように言葉さえ違った。ケン・ローチは映画で成功しても、小金をもった労働階級の人だ。そうありたい人だ。
じゃ、是枝監督はというと、やはり、貧乏人の話の方が、彼は得意なんである。でも、彼の等身大のひとは、リリー・フランキーなんですよ。家族や血縁から切り離されたインテリ。
だから、その秘密はラストの男の子の境遇にもあり、彼は公の支援を受け真っ当な人生を送りそうだけれど、家族というものから切り離される。そして、親を否定されることをつらく感じながら、偽善的に感じながら、より道徳的に生きていく。しかし、家族の愛情への後ろめたさを感じながら。
この辺りが伝統的な日本的な階級感だなって思う。優秀なこどもを上の社会の養子として迎え入れる。しかし、そのコミュニティから切り離す。
イギリスでは、ケン・ローチはあくまで労働階級の賢者で、その中のひとだ。サッカーの英雄は労働階級の英雄だ。彼らの中の英雄だった。
でも、そういったことも最近は様変わりしているらしい。労働階級のひとは貧困化が進んでサッカーのスター選手になれないらしい。
日本でもそういった感じは進んでいる感じがする。
まるで、物の生産が少ない産業革命まえに先祖返りしているような気がする。
この12月、私は社会学者の岸政彦さんが講師をする、「ディスタンクシオン」のNHKの放送を見た。社会学の根本のひとつ、フランスの社会学者のプルデューの本らしい。
その中で格差について描かれているんだけど、グローバルが進んで、いよいよ、欧米並みに一部の人が知のある人で、その他の人は訳が分からん人扱いされつつあると思う。そういった意味で、今読まれる本になってるんだろう。
そういう意味で格差を含んだ物語が、エンタメとして作りたいもんになっているのかもしれん。そのなかで労働者運動とか社会主義とかどんなもんって、老映画人に問うてみたいって感じなんだろうか。