oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

映画に知識は必要か

  映画「浮雲」のブログを書いていたとき、森雅之の父の有島武郎について書こうか迷ってしまった。略歴の確認でネットを見て、不意に思い出したからだ。私は、ずっと、かつて読んだ、有島武郎の童話「一房の葡萄」がひっかかっていた。すごくロマンチックだけど、不気味な情念を感じる話だった。この話は森雅之をふくめ、息子たちに捧げられた話らしい。「浮雲」はたぐいまれなる森雅之の演技力に支えられた映画だと思う。しかし、なぜ、父を心中で失った彼が、演技という生身のからだをさらす仕事をえらんだのか。童話と絡めてぼんやりと感じたのだ。でも、演技のすごさに感動したことが、ぼやけるんじゃないかと思って、書かなかった。

 このことを書きたいと思ったのは、多分、私が映画を考えるヒントと思っているからだと思う。より深く考えたい。このブログを書いていることもそうかもしれない。そういう意味では、映画に知識は必要だ。人間は自分の体験したことにとりとめない感想を持つ。そのとき、森の不気味な男の演技は、彼の愛に対する複雑な感情からきてるんじゃないかと思う。思い込みかもしれないけれど、そういったことを考えるのは楽しいのだ。知らなくてもいいけど、あの迫力はどこから来るか知りたくなる。

 しかし、多くの人に共感をあたえる映画は、求める心があれば、わかってしまうんだと思う。子どもの頃、ビスコンティの「山猫」をなんども見た。絢爛豪華なパーティシーンが綺麗だったからだ。アラン・ドロンは最高の美男子のひとりだと思う。しかし、基本的には、彼はきらいだし、ビスコンティぴんとこない。しかしですよ、このわかりやすい、時代が変わっていくことの悲しみを共有できる映画を残すことが、最高の監督の条件かなっと思う。たいがいの記憶に残る映画を残す監督は、一本は、開く窓を持ってるんだなとつくづく思う。あのパゾリーニもキリストの受難をえがいた「奇跡の丘」という大ヒット作があるというではありませんか。大衆的なものとは、心の窓なのだろうと思う。そこから先の部屋を知ることは自分次第だ。しかし、気に入ったなら、知識をもって、色々と感じることもありだと思う。しかし、それは、あくまでも個人的な幸せだあるのがいいのだ。 無垢なこどものように体験したいと思う。しかし、何か知ることの深さも良いもんだなと思う。それは生きて行くとつく垢も愛しいと思うようなもんかもしれない。

  

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  もう一つの代表作、雨月物語、こちらではひたすらに弱くおろかなおとこを演じていて面白いです。

 

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

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