oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

雨宮まみ「東京を生きる」ことばにできないこと

 雨宮まみの「東京を生きる」を読んだ。なんとなく呼ばれて、デビュー作の「女子をこじらせて」もよんだが、そちらはいろんな要素を詰め込んで読みずらかった。その混沌をそのままさし出したのが、こちらの本だ。たった5年ぐらいかな。こんなに簡潔な文章に進化してるとは、ほんとに生き急いだのだな。故郷をはなれた理由のひとつに、博多の繁華街の東京の最上の上澄みがある世界とほんの10分ほどしかはなれない高校生しか乗っていない電車路線をあげていた。私も地方の県庁所在地に降り立つと、その虚構性は強く感じる。しかし、目を背けて消費を楽しむだけなら、気にならないで生きていけるひとも多いのにと感じた。確かに田舎の優等生はつらい。勉強ができるだけに美貌や振る舞いなんかを値踏みされた上に、家族のなかで別の階級にならされるのだ。東京で何事かをなすために特別にあつかわれたひと、しかし、東京でひとりぼっちの女ができることなんてしれている。東京で生まれただけであらかさまな下駄をはかせられているのである。学生時代、地方の優等生の男の子たちと遊んだことがあるが、下宿していてる彼らが、大阪のデパートのビアホールにいくのさえ、頑張らなければならないと知った。それなのに大企業に就職して、バブルの頃とんちんかんな背伸びを覚えていくのである。都会にも、もちろん見えない壁はある。大学から住んでいる町の駅に降りると、子供時代の知り合いたちはチリチリのパーマをかけて所帯染みていく。なんで部活の先輩の結婚して子供のいるひとたちはあんなに若々しいのだろうと。そんな女の子たちを彼らは目指す。そこにこまかな階級というものがあるのがわかる。私は彼らのどちらにも媚びることも同化することもできなかった。卒業してから、貧しい人たちと一緒だったため、親戚に差別されて沈んでいった両親と、ものが投げやりに置かれた実家でひそんでいた。東京に行くなんて思いもしなかった。誰かに一生養ってもらうしかないと思っていた。

 そんな私にとって雨宮まみの東京での冒険はてんで縁のないもんである。ただ、下町の同級生の優秀な男でさえ、40代で子をなすような東京で、女として名をあげるなんてとんでもないドンキホーテの努力であることはわかる。しかし、彼女の生き方は、彼女の本は、私の心に響く美しさがある。本の真ん中で藤圭子のうたう「マイウェイ」についての言及がある。藤圭子はわたしとっても、気になる人だ。デビューのときの「圭子の夢は夜ひらく」は名曲だと思うけれど、それからの曲はなんだかそぐわない気がして痛々しかった。そのうち前川清と訳のわからない結婚をして影が薄くなった。その後見たのは、米軍ハウスかなんかに親子三人で住んで、良質な三枚の食器を示してシンプルで素敵な生活をしていた彼女だ。かっこいいなっと思った。たまにタモリがMCをしていた「今夜は最高!」で楽しそうにポップスを歌っている姿をみた。話はそれるが、あの番組好きだったなあ。音楽を楽しむってこういう感じだと思った。そんななか、嬉しそうに娘自慢をしている姿をみた。いつも、本気で幸せそうだった。その裏で、正反対の極端な浪費とかしていたのだなあ。村上春樹のエッセイで、彼女に町のレコードやさんかなんかであったエピソードを読んだのはそのころかな、あまりにふつうで素敵な彼女があんな歌を歌わされて気の毒だったという話だったような気がする。ひどく同感した、幸せであって欲しいとひどく思った。そのうち宇多田ヒカルがデビューして、あまりの天才ぶりに彼女は歌を歌わなくなってしまった。なんだか寂しくてSNSで彼女の影をさがした。私は藤圭子が旅芸人の娘というもっとも古い価値観を持つ階級の出身であることを知った。そして、中学生時代の勉強ができる美少女である彼女への憧れに満ちた、同級生のホームページを読んだりした。あんな死に方をしたので閉鎖されてしまったけれど、その彼女も彼女だったんだろうと思う。雨宮まみは、すばらしい才能に振り回され、別の人になりたいと願ってもなれなかった彼女と同じように、平凡な私もあなたも自分以外にはなれないとその章を閉じる。改めて問う、私の前に一瞬あらわれた、彼女こそはなにものか、そんなことをこの本を見て思った。

 

 

東京を生きる

東京を生きる

 

 

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 最近、村上春樹川端康成を気持ち悪いって思っていることを知った。藤圭子と同じ目線でみていたのだろうと思う。私は実は嫌いではないのだ。どちらか言えば古いものと共存するタイプなんだろうな。