oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

いっしょ過ごした「少年の名はジルベール」

 私が中学時代、大好きだった萩尾望都先生が竹宮惠子先生いっしょに共同生活をしていたのを知ったのは、ずっと後になってからだ。一年ぐらい前から 、漫画家をめざして上京し、「風と木の詩」を書かれたいきさつを書いたこの本を読めずにいた。そして、そのころのことを色々と思い出してた。中学のとき、私が漫画を好きなのを聞きつけてともだちになってくれたひとがいた。彼女が大好きだったのが竹宮先生だった。ふたりで「サンルームにて」を読んで、いつ、このジルベールという少年が主人公の漫画が描かれるのか、興奮して語り合ったものだ。「サンルーム」初めて知った言葉だ。ガラス張りの離れ家のことですね。おフランスのすてきなこと風俗が描かれ、背徳的でわくわくした。学校のなかで他に読んでいたひとはいたのかな。大概は、マーガレットとか、読んでいたのかな。友達の少ない私たちは気がつかなかった。この本を読むと、ファンレターを書いた人も少なくなかったらしい。いっしょに言葉を持って、先生たちを応援していたひとがたくさんいたのだ。おなじ中学生でも、ずいぶん違う。私たちはいろんな意味で差別される境遇だったので、自己肯定感が低かった。やさしくされることを期待して、手紙を書くことを思いつきもしなかった。しかし、そういった私たちに強い励ましをくれる人たちであったのだ。

 この本では、徳島から上京した竹宮先生が増山法恵さんという友だちと出会い、彼女を通して、すごい才能の持ち主である萩尾先生と共同生活をすることになり、そして、ふたりで学び合う二年ほどの際月が描かれる。そうか、私が、初めて出会った「空がすき」のころだったんだとと知った。「空がすき」は楽しかった。当たり前だ。「シュルブールの傘」を始め、フレンチミュージカルを徹底的に研究して書かれてたのだ。その後、「アラベスク」の山岸涼子先生を加えて、シベリア鉄道を経ての長期のヨーロッパ取材旅行に行ったこと。そして、萩尾先生へのしっとに苛まれ、決別する日々が描かれている。

 あのころ、ふたりは、はたち過ぎたくらいだったのか。しかし、あの年代のひとは母親になるひとが、ほとんどだったからだろうか、覚悟が違う。漫画で革命を起こそうと理想をかかげていたのだな。そのための猛勉強はすごいな。映画の脚本のしくみがわかり、教養がある増山さんが、すごいと驚いたようだが、こんなひと、今の日本でもそうはいない。おふたりも元々、相当な知識と教養がある。女性が絵で食べていくということが成立しているのは、日本の漫画ぐらいではないだろうか。そのころ読者としてすごせたのに身震いする。

 意外だったのは、そのころもアンケートがあって、竹宮先生が一度も一位になったことがなかったことだ。少女コミックのなかで輝いていて、みんな、ふたりが読みたくて、読んでいたのではないのかな。もちろん、「ロリィの青春」の上原きみ子先生の作品も好きだったが、いささか、子供っぽかった。こう書いていると、アンケートにも気付かず、旅行記を流し読みしていた、私にびっくりする。相当、混乱していたのだな。確か、一ヶ月ほど学校を休んだこともあった。連載された、「ファラオの墓」はしっかり覚えているし、萩尾望都先生が影響を受けた手塚治先生の漫画を求めて、最後の古本やに出入りして、白土三平忍者武芸帳も読んでいたのは覚えているが。確か、萩尾望都先生に、とんでもないファンレターを送ったことがあった。投函したあと、届かないことを祈った。

 しかし、そんな、私にも、おふたりのメッセージは届いたし、友だちを得ることができた。内心は、その境遇をバカにしてなかなか打ち解けない、ひねくれ者の私のよくぞ友だちになってくれたと思う。ご両親が信じる宗教系の進学高に入って縁が薄くなった彼女に、最後にあったのは、人混みの中の十三駅のホームの向かい側だった。障害のあるひとたちを引き連れてのジャージ姿だった。にごりのない笑顔を向けてくれる彼女に対して、女子大生だった私はうつむいていたのが、情けなく辛い思い出だ。なぜか、名前も忘れてしまった彼女のことが忘れられない。私をいじめてた、その後、16で子供を産んだ少女のなまえはしっかりと覚えているのに。

 

 

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール