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oohaman5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと、書いています。

生者と死者と「君の名は」新海誠

【映画パンフレット】 君の名は。

 とうとう新海誠の「君の名は」見に行ってしまいました。彼は私とおなじ国文科出身だそうで、古今和歌集小野小町の「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを 」と院政期の「とりかえばや」ヒントにしたと、町山智浩さんの「映画ムダ話」で聞き、ついつい好奇心に負けて見に行ってきました。冒頭、高校の授業の「他は誰」他者と自分の境が曖昧になる時間、それを古語で「たそがれ」といい、死者とも出逢う時間との説明があり、懐かしかった。私もこのはなし好きで、オカルトにつうじるところがあって、古典を勉強したいというきっかけのひとつだったように思います。これがわかるかどうか、うまく説明されていたかが、古典が面白いと感じる境目のひとつかなと思います。私はすすんで国文科にいったのですが、同級生はつまんなかったという人多いです。まあ、偏差値の低い大学で、行くこと以外に興味なかったから。だからこそ、自分なりに選んで少しでも好きなことが勉強できる学部に入ったんですが。どうせ、ばかな女の子なら英文でしょって、まわりに笑われたりしました。

 私は義太夫とかをふんだんに聞く年寄りに囲まれて育ったので、授業が楽しめた方だと思います。古典って車の運転を習うのに似てて、脳の使わないところを訓練しなくてはわからないところがあります。歌舞伎は最後まで観れるようになったけど、文楽からは文意がわかっても必ず眠ってしまいます。感覚的に楽しめないです。黒澤明の世代のひとまでは少し頑張れば、能も楽しめたみたいですが。やっと、最近、年をとって和歌やら俳句がわかってきました。経験者によると、死者に近づくとわかる、そういうもんらしいです。まあ、わかってどうなんだって思うけど、へんな欲があるんです。亡くなったひとたちに褒めて欲しいんです。先祖供養というか、松尾芭蕉にもそれがあって、旅をしていたみたいですね。古典の基礎の和歌のせかいは宗教と深い関係があって、それは生者と死者、夢とうつつ、自然と人間、男と女っていうことが底にあって、私はなぜ自分がここに存在してるか知りたいという欲求を求めるのにいいツールだと思います。日本を知る、先祖を知る道標になるような。

 新海誠はどうやら、自然に囲まれ、先祖供養や多神教が日常に残っている田舎で育って、和歌やなんかが感覚的に分かり、自然と一体感をかんじる力があるようですね。そして、それを表現できて共感をよぶ稀有な才能があるのかな。むかし、ジブリの番組でアニメーターが、絵やまんがから学んで、自然を体感して絵が描けるひとが少なくなって困っているということを、鈴木プロデューサーが嘆いてました。アニメの背景にリアルさがかけ、深さが出ないそうです。特に男がだめで、女性ばっかり採用しているそうでした。

 そういった自然を凝視した表現を武器に、ポケモンとかの多神教的な価値観を背景にしたアニメやゲームの伝統をフルにつかうって鉄板かなと思います。意外に西洋のひとの奥にもストーンヘイジとか、そんなオカルトな気分が残ってますもんね。出てくる山の上の巨石を拝むって意外にあって、私のばあちゃんたち、身内が死ぬと山に登っておにぎりを転がしに行ってました。今でもやってるのかな。でも、東京なんかでも、実はそういった場所が残っていて、ラストはそういった場所で終わるのは、私にはリアルでした。町山さんが、新海誠は、電車ですれ違うことが多いと語っていましたけど、電車って運命を運ぶ場所だと、私は思っています。受け身で、閉鎖されてて、自分で選べない。でも、それを楽しむっていうのが鉄道好きではないでしょうか。でも、そこからはずれた場所でこそ、ありえないことと廻り逢えると、なんとなく、みんな思っているのではないだろうか。電車を止める自殺がはやっているのも、なんか関係ありそうですね。たぶん、街でそういった場が見えなくなっているのでしょう。そういった場を求めるひと、江ノ島神社に、カギの絵馬を奉納するタイプのカップルとかが、この映画を見に行っている気もします。

 今まで、新海誠は都会のせいかつへの強烈なあこがれや、とっぴびょうしもない宇宙とかでてきてたんですけど、閉塞感と偏見の多い田舎にかつてあった日常とが、同じように扱われるようになって、すごくわかりやすいなって思いました。だいたい、みんなそんな感じで生きてるんじゃないかな。