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oohaman5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと、書いています。

映画「牡蠣工場」日常にこそ、力がある。

 映画を見ていると、ときどき、なぜ、わざわざそれを選んでみているかとはっと気がつくことがある。冒頭の牡蠣の水揚げの作業から牡蠣むきと港の風景を見ているとなんだかもやっとした。行ったことがある。港の寺をみて思い出した。安国寺恵瓊の寺だ。当時見ていた大河ドラマ関ヶ原の戦いで、出てきたひとだ。父がその地で絵をかいた梅原龍三郎なんかにあこがれて、弟と連れて行ってくれた。そして、下町の落ち目な自営業をしていた父の最期を支えてくれたのが、中国の人たちだったのも思い出した。そうだ、あのバブルの末期、切り捨てられそうな人たちはすでにいて、中国のひとなどが支えることが始まっていたのだ。フィリピンパブなんかもあのころだ。映画のなかで、なぜ日本人を雇わないかと尋ねられた工場のひとが、理由のひとつに中国のひとは労働が体に入り込んでいるようなことを言ったけれど、うなづける。わたしなんかもダメだ。労働が体に入り込んでいない。牡蠣むけないなあ。というか、レジ打ちなんかも実は高度な労働で、誰でもできるわけではない。労働の訓練がひつようなのだ。レジ打ちがなかなかできなかった私が書くのだからほんとうだ。私は自営の家でそだったので、通勤もにがてだったなあ。中国のひとたちは人口が多く、まずしかったゆえに、できないひとは淘汰されているんじゃないかと思う。

 そんな中国のひとに支えられているのが、牡蠣工場だ。中国のひとへの偏見と愛情が入り混じった感情をまじえながら、牡蠣工場の現実が、日常が進んでいく。みんながほしがる食べものなのに、工場がかろうじて維持されている。採算もあわないようだし、衛生面も人々の努力でやっとこさにみえる。後を継ぐのも大変そうだ。過疎地に居残ったご老人たちを、地震で来た南三陸の一家が支えている。ああ、海のみちだな。わたしも瀬戸内がルーツなので、海づたいに縁があるのがわかる。そんな現実が淡々とえがかれる。そのなかで安価なものが遠くからくるグローバル化の恐ろしさと人々の適応がえがかれる。

 この映画は、相田和弘監督が奥さんとふたりで撮っていて、プライベートフィルムの延長のようだ。ときどき、住んでいる家となついてる白猫がでてきて色っぽい。三陸の夫婦ととなりの跡取りの若夫婦が出てくるが、夫婦の親密な感じが滲み出てくるのはそのせいかなっと思う。その彼らのたくましい健康さが、変化する世の中に対峙するちからの、そこはかない希望を感じさせるのだ。

映画『牡蠣工場』公式サイト|想田和弘監督作品観察映画第6弾

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