oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

父親の意味 待賢門院璋子の生涯

  白洲正子の「西行」を読んで、保元、平治の乱の遠い原因のひとつは、早くに藤原氏出身の母を亡くし、摂関家に恨みを持つ父親にうとまれた、白河院の孤独と富と権力の集中にあったのだなとおもった。彼は周りの人に依存しすぎて、ひとをだめにしてしまうのである。待賢門院璋子は父を早く亡くし、権力志向の母に、白河院の養女にされた女性である。父性とは何かを深く感じる人生の物語だ。

待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))

待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))

 

  このなかで、国文学者、角田文衛は、当時の公文書で孫の鳥羽天皇の皇后だった彼女の生理の記録と白河院と過ごした時期から、崇徳院が祖父の子であったことを証明した。どうだろう。今はこの本は女性学者から、生理は狂うものだからと、根拠が疑われているらしい。でも、こんな極端なことはなくても、実家にべったりの妻と夫の諍いと愛着ってよくあるなと思う。

 しかし、祖父が生きている間は、ふたりはたくさんの子供をもった仲の良い夫婦だった。障がいのある子供を10歳ぐらいで死ぬまで、手元で大切にふたりで育て上げた。彼女は当時の貴族の女性に珍しく子供が生まれるとき、ヘソの尾を切ったりしたひとでもあったらしい。女そのものの女性だ。関連本をよんでみると、京都の庶民にすごく人気があったらしい。はででこだわりがなく、気前がいい美女である。白河院と夫と熊野詣になんども行き、親孝行との評判もあった。可愛がっていた末っ子の後白河院のひらいた今様のコンサートに行っていたりした。当時の都の貴族は芸能人のようなあこがれのひとでもあった。

 子供好きな女性はひととの境界性がゆるいひとが多い。曖昧になるように生理的に設計されたいるから、子育てができるともいえる。逆に言うと目移りしやす貴族社会では、こどもと距離ができてしまう方が普通だ。モラルがあまく、動物的ともいえる。庶民のように子育てをして、だれにも気さくなひとであったようだ。

 この夫婦に共通するのは、崇徳院への冷たさだ。幼くして天皇になって疎遠だったこともあるが、お互いに見て見ぬふりしたことへの見えない怒りであろう。それを許したのは、親を亡くしたふたりを養ってくれた祖父への依存だ。じいさんは権力と金をふりまわし、身寄りのない子供につけこんだともいえる。いじめられた人は人の弱みがよくわかるのである。しかし、それだから、人が何を喜ぶかもわかっていたから厄介だ。

 鳥羽院より、権力があった白河院は人気があったと思う。だから、鳥羽院は祖父が亡くなったあと、夢からさめたように新しい家庭を作り、きらいな息子を苛め抜いたのだ。

 彼がたいして美人でもなく、身分の低い新しい妻を持ち、子供を天皇にごり押ししたのは、庶民にはふしぎだったと思う。だから、あとの奥さんを玉藻前、九尾の狐にした伝説もできたんだろう。そこにまがまがしいものを感じたのだ。

 そして、実家の力がなくなったとたん、夫がさめることもよくありそうだ。そんな父という社会の装置から守られていない、機能不全家庭の物語なのである。それが国家の存亡に絡んでくる。まわりはたまったもんじゃない。

 西行はそんなあらそいの原因である女性の側近くにおり、歌うたいの友人として、保元の乱を起こした崇徳院の苦しみに深くかかわった。

崇徳院に贈った歌  

  しろみねと申ける所に、御はかの侍けるにまいりて 墓参りをした時の歌、

よしやきみむかしのたまのゆかとても かからん後は何にかはせん