oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

 西行ってなんだろう。白洲正子「西行」を読んで

   私が中世の歌人である西行について、読んだのは、テレビの大河ドラマ平清盛」からというミーハーな動機だった。あらすじを読んで、たまたま見つけた白洲正子の「西行」を読んでみたのである。まず、十代から気になっていた明恵上人に西行が語ったとされる唯一の歌論が目にやきついた。歌が上手だった若者、明恵は晩年の西行と親しかったようだ。西行は歌を歌わずにいられなかったことを自分の業といい、そしてひとには仏道のさとりのさまたげになる。しかし、月や花といったものにたくして、自分なりの悟りも目指すしか無かったと語ったらしい。そんな、仏道を志しても、歌うことが止められなかった男、そして、関わりあった人を愛せずにいられなかった男として、西行は歴史上、そして詩人として私に忘れられないひととなった。西行平安時代院政期の白河法皇を守るために作られた北面の武士の出身である。彼は大金持ちの息子で、武芸ができて、男前で歌がうまい、かっこいい青年だったらしい。幼い時に両親を亡くしていたが、親族に大切にされ育った。

 伏見過ぎぬ岡の屋になほ止まらじ 日野まで行きてこま試みん

なんて、京都郊外を馬で走っているような青年だった。

 

 その若い青年が妻を叩き、幼い子供を蹴落として、出家してしまったとされている。俗説では友達が急になくなったためとか、出入りしていた家の主人である待賢門院と密通したためとされている。彼女は白河法皇の養女で、孫の鳥羽天皇の嫁でありながら、法皇の子、崇徳院を生んだとんでもない女性だった。息子の嫁に押し付けられそうになった貴族の日記によると、嫁入り前、若い男と遊ぶのも平気な女性だったらしい。華族の出の白洲正子はあり得ることとしている。なんにしても、お互いを疑いあい、馴れ合った朝廷の空気にうんざりしたということだろうと思う。私が思うに、大きくは、地震といった自然の変化も厳しくなり、人間の作った社会のなかでは、生き残るためにお互い殺しあわなければならない時代がすぐそこに来ていたことを敏感に察したのだろうと思う。詩人としての魂は殺されてしまう。彼らしさは損なわれてしまう。それからすぐ、保元の乱が起こった。公式には停止されていた死刑が復活したのは、保元の乱で負けた源為義らを罰するためだったそうだ。

 確か、15歳年下の法然上人も武士の家にうまれ、復讐の繰り返しの人殺しが嫌だったというのが最初の動機だったと思う。しかし、死ぬまで正義感がつよく、感じやすい西行はやすやすと穏やかな心にはなれなかったようだ。義理の息子を苛め抜いた鳥羽院が死んだ時も葬儀に駆けつけ泣き、保元の乱仁和寺に逃げ込んだ崇徳院を真っ先に尋ね、高野山大峰山で修行し、歌のうえで友人であった崇徳院をいさめ、死後、供養のために讃岐の山にこもり、東北の藤原氏を、高野山の再建、奈良の大仏の再建のため二度訪ね、ついでに頼朝を鎌倉に訪ね嫌味をいうという、活動的な人生を送ったのである。とんでもない健康なひとである。義経の家来だった佐藤兄弟と親戚だった。どうやら彼らの姉妹が義経の妻だったらしい。だから、義経と知り合いだったのも確実で平泉に逃げ込んでいたのを知っていたらしい。歴史と深く関わらずえなかった立場で仏道に入った。故に歌人として大成し、自由に対等に当時の重要な人と付き合えた。そんな折々に美しいしらべの歌をうたう人生はすごい。

 

 そういえば、同じ年にうまれた平清盛西行高野山の再建に協力を頼んでいると書かれていた。平清盛北面の武士の同僚だったようだ。彼はもともと白河法皇のお気に入りの平忠盛法皇の愛人祇園女御の縁者の間にうまれた。生まれすら、天皇の権力のもとだった。それゆえ、人と競って、生き抜くための修羅の道を歩んだ。テレビでは親しげだが、若い時は心の住む世界が違っていて接点は無かったと思う。見ている世界がちがう。

 かつて、京都の六波羅蜜寺で清盛の娘徳子の安徳天皇出産を願う供養の品、土塔を見たが一族の多くの手跡がついていて恐ろしかった。いかに彼らが権力争いに巻きまれて傷つき、恐怖に駆られていたか、生々しかった。厳島神社の平家納経も神社の端っこの宝物殿にぽつんと置かれていてびっくりしたが、美しくもおどおどろしい。彼らはそれだけ、権力のために人を殺めなければならなかったのである。平家は滅亡したけれど、天皇家は女系をとおして平家の子孫らしい。骨絡みの関係だったのである。そんな世の中で西行は後世の人をなぐさめる歌をうたっていた。西行の妻と娘は二人とも尼となり、彼と再会をはたしたらしい。

 

西行 (新潮文庫)

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