oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

ショッピングモールとは

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 中沢新一の東京の土地の歴史をかたった「アースダイバー」を読んだとき、下町の路地の植栽の意味が書かれていて、幼い日、やなことがあったとき、路地の花やみどりになぐさめられたことを思い出した。そうか、あれは自然が貴重な都会で、公共にみどりを歩くひとにも共有できるギフトだったんだと思いあたった。 田舎に住むようになった時、大自然のなかで生垣に囲まれた色とりどりの花が植えられた庭をみて、ここでは自然はありふれているが、人間に優しくなく、家のなかに人間にやさしい自然を取り込んでいるのだなと知った。人間と自然、そんなことを思い出しながら読んだのが、共有できる場所としてのショピングモールとそれに似ているテーマパークについての刺激的な考察があるこの本だ。

  どうやら、この本によると、この二つは、人類の砂漠にあるオアシスに対する気持ちを潜在的原型にしているらしい。オアシスとは、人間を自然から守るユートピアの追求だったらしい。私はモールが苦手なのだが、田舎に住んでいると避けては生きていけない。商店街は寂れて、売り手もべたべたするか、排他的だ。筆者も子供ができて、そこに気がついたらしい。モールは人工的で、清潔すぎて苦手なのだけれど、日常の人々の好みを反映しているし、何より子供やお年寄りにやさしい空間に成っている。しかし、そこに決定的にないのは死で、それが、アメリカのホラー映画の巨匠ジョージ・A・ロメロがゾンビを走らせたい理由らしい。そして、映画「桐島、部活やめるってよ」では、疎外感になやむ映研の少年、神木隆之介はモールでロメロを見る。モールは死がたくさんあった荒野を開拓したアメリカが発展させたものだから、嫌なもの、めんどくさいものを避けるらしい。だからこそ、ときに破壊されるべきなんだろう。

 しかし、寝るだけの空間である家と表面的にはなんら繋がりが見えなくなり果てたご近所が砂漠と成り果ててるなら、人工的に作ったオアシスがなければ生きていけないのかもしれない。そんなふうにこの本を読んで感じたのだった。だったら、積極的にその空間をよくしていくしかないではないか。行ってみて、実際、居心地が悪いなあと感じた六本木ヒルズスカイツリーソラマチは、あいまいを許さない空間としてのモールを嫌う商店街推進派だけでなく、モールに肯定的なこの本の書き手たちにも、評判がわるい。だから、あることが必然とされつつあるモールは人間の生理にそうよう日々進歩しているのだ。最近、ご近所の市にできたモールに行ってみて感じたが、ホントよくできている。安めのスーパーから中級品、高級品を扱う店がはいっていて、かつての多様性のあった商店街のような作りで、居心地はそんなに悪くない。ただ、乾燥した空調は人工的で私は息苦しかった。

 また、この本は、モールと関係が深いディズニーランドについても多く語っており、去年NHKで放映されたディズニーのドキュメンタリーとあわせて、あの場所がアメリカの開拓民の子孫としての心地よさの追求があるのは理解できた。心地よさはアメリカだけでなく、人類の夢なのだろう。

 話はそれるが、商店街がシャッター街になった田舎では、コンビニが少数多種類の商品を扱い、かつ役所、チケットぴあ、銀行の役割なんかをしていること、その店員さんが相当な能力者であることにも触れてくれている。そして、そのあやうさも。日本のコンビニはかつて田舎に多かった郵便局とよろずやの効率的な発展だと思っている。それは、日本人の公共心の強さにささえられているようだ。しかし、最近、あまりに仕事が集まりすぎて、店員さんが怖いのだ。モールに車で行く気力のないときに行くのでこたえる。どうか、仕事の種類を減らして欲しい。これから、日本の商店はどうなっていくのか、生活に関わってくるから考え込んでしまう。

 この本を書いた東浩紀さんのゲンロンについては詳しくは知らないけど、この本は色々と現実についてのヒントを与えてくれて面白かった。