oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

ひとはそう変わらない 宮本常一「忘れられた日本人」

 映画を観に行ったとき、神田で、ふと買った一冊だ。あまりにも有名な本なので、どうかなあと思ったけど、やっぱり感じたことを書きたくなった。書かれているなかで、面白かったのは、男が夜、女の子を訪れる「よばい」の習俗だ。

 どきっとするが、村の女の子の半分ぐらいしか体験しないと知ると、なんだと思った。生理がはじまって、嫁にいく16から18ぐらいのほんの少しのあいだのことらしい。昼間の村仕事のあいだに、親がきついとか、女の子が性欲がつよいとか、ちょっとかわいいとかで、行く相手を選んでいるので、なんかしらの理由がたつのである。だから、よばいをかけられないほうもカラっとしたものだ。すぐ、男女とも一応結婚でき、子供なんかできたりで、ぼんやりした青春の一コマになるようなものだったらしい。初対面の男女があつまり、うわべいい男、女が相手をえらべる合コンの方がよっぽど残酷だ。

 宮本常一の祖父の人生も書かれていいて、十代で恋人になったひとと、お互い28で結婚したらしい。美人で我がつよく、男を寄せ付けない女性だった。美人って今も昔も強気だ。親はいやがったが、愛をつらぬいていっしょになった。今と変わらない恋愛のかたちだ。結構、自分らしく生きれたのだ。むしろ、しきたりの壁がない今のほうがむずかしい。例外がないから、自由度が低い

 そんな「よばい」でできた子供の人生を描いたのが、芝居までなった「土佐源氏」の話だ。親があいまいで、村の秩序のなかにいないから、農作業を教えられることも村のしきたりを教えられることもない。しかたなく、放浪民である牛の売買をする馬喰のところにやられた男の話だ。しかし、こういった人でもしっかり仕事をつけてあげるということが大切なことだ。やはり、家族が簡単に亡くなったりした時代だったからだと思う。そうした境遇で、新しい村を切り開いた人々に拾われた男のはなしもこの本のなかにある。

 さて、そんな寄る辺ない男は、夫の亡くした後家を中心に女遍歴をする。そして、身分の高いが不幸な女のひとと情を通づる。さらっと書いてあるが、これは映像化すると、内容的にすごいポルノである。大体、そんな身分のたかい女性が乞食同然の男とどうにかなるなんて、どこまでほんとなんだろうかと誰もが思うはなしだ。そこで思い出したのが、かつて読んだ、吉田松陰と同じ牢獄にいた高須久子のことだ。なんでも彼女は後家になったあと、美男の三味線ひきの芸人を家に引き入れて大っぴらにつきあったらしい。それを親戚のうちうちで始末したあと、なんと、そのおいでもっと若い美男を引き入れた。それで、牢獄に入れられたというのが真相だ。エッというはなしだがこれを男に入れ替えるとどうってことない話だ。だって男が身分低き遊女とあそぶのと、そう変わらない。女たちのなかで男を買うということが、こっそり行われていたが、堂々としていたから、おっさんたちの反発をかったのであろう。

 だから、秩序のなかでしいたげられた女のひととの秘められた男女の関係が、もっと草深い田舎でこんな形でなかったとはいいきれない。だいたい、平安時代なぞは身分の違うひとと大切につきあうことは色好みとしてかっこいいとされたのだ。そこで、「土佐源氏」なのである。恋愛ということが、他者のなかで自分を見つけるということだあるのなら、これは堂々とした恋愛ばなしであろう。このように秩序から放り出された男は心の自由を得たが、最後は橋の下に住むめくらの乞食となった。

 と、ここまで書いていて、この本があまたの論文に書かれているほど重要な本であることを思い出した。私ごときの感想なんてとも思う。でも、いろんな発展があることこそがこの本の面白さだ。調べてみると、網野善彦の最後の本がこの本を論じたものだったりする。まだ、読んでいないが読んでみたくなった。

 昔が野蛮で残酷だったのはまちがいない。しかし、それだけではない、動物的な無意識な秩序もあり、それは昔も今も変わらないような気がする。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 

宮本常一『忘れられた日本人』を読む (岩波現代文庫)

宮本常一『忘れられた日本人』を読む (岩波現代文庫)

 

 追記 やはり、土佐源氏の橋の下の乞食っていうのはフィクションであることが、網野善彦の本で確かめられました。正確には水車小屋を建てていたそうです。この本も面白いです。