oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

人は、戦争を望まないわけではない。

 亡くなった父は晩年、「戦争が起きればいいのになあ。戦争中は自由だった。充実していた」と言っていた。びっくりはしたが、驚きはなかった。なぜなら、武勇談として語るひとも結構いたりしたからだ。可愛がってもらった友人のお父さんなども、陸軍士官で満州で馬に乗って爽快だったの、女の人にもてただのと話してくれた。当時、このことを父に話したら、彼は戦争で大してひどい目にあっていないのだと言っていた。そんな簡単な話でもないだろうが。父の年上の友人は陸軍士官学校を卒業して満州にいたが、決して戦争のことを語らなかったそうだ。この人は面白いひとで、日清食品安藤百福氏の経営していたアパートに住み、チキンラーメンの試作品を食べていたひとだ。父に谷口ジローがアシスタントをしていた石川球太の「冒険手帳」を贈ってくれたひとだ。

 父は、終戦近く、教育大附属小学校の郊外にあった疎開先から、歩いて脱走した。そこは、本願寺派の大きなお寺で、戦争中にもかかわらず、鶴を飼っていたそうだ。まずいものを食べさせられていうのに、彼らがいい生活をしてるが、腹が立ったのが、その理由だと言っていた。学校の先生の娘だった祖母に答えるため、必死に優等生を演じていたので辛かったのかもしれない。遺品に父の全優の通信簿があったようだ。それで、6年生だけ、疎開のない地元の小学校に通った。でも、逃げても、中学校では規則がきびしい軍需工場にやられていじめられたと言っていた。そんな工場も焼けてしまい、焼け跡をふらふらと腐った死体を踏み抜きながらさまよっていたらしい。確かに、自由で面白かったのであろう。父はお金持ちのお坊ちゃんだったから、疎開先からまんまと逃げおうせた。目はしの聞く祖父は、時代に寄り添い、戦前もそして戦後は、それ以上に裕福な生活を家族にさせていた。戦争に行ったり、家族を亡くしたりしたひとから見たら、腹立たしい境遇だった。そういったひとに心ない言葉をぶつけられたりもしていたようだ。結核にもなったが、いい薬が手に入ったので、生き延びた。しかし、彼が戦争に傷ついてないとはいえない。背景にある、近代というものに傷つけられていた。

 戦後、家業を引き継いだ父は、経済的に両親を助け、弟たちを大学までやった。そして、傾いていく仕事に執着した。失礼な言葉をまきちらす彼に、感謝を届けるのはたいへんだった。しかし、私たちに普段見せないところで、人と助け合って生きていた。そんな、これらの不遇感をもつ、多くの人のなか、生きづまった思いのなかに「戦争ができる国」への思いがあるんじゃなないかと思っている。

 

 

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