oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

忘れられない人  2 

 私が生まれたのは、同じ女学校にかよった、同郷の友情からだった。うちの両親の母親同士が、友人で、その仲立ちをしてくれたのは、やはり、同郷の友達で、田舎の遊郭の娘で、満州で料理屋の女主人をしていた人である。

 

 その人は戦争で家族を無くし、たったひとりの息子を連れ、満州から引き上げてきた。そして、父方の祖母のところに身をよせて、働いた。養子だった息子さんが結婚して、色々あって、一人暮らしをされていたようだ。その人が両親を引きあわせてくれた。

 

 そういった境遇の人あったので、両親はいじわるだと、けぶたがっていたし、私にも意地の悪いこともあったと思う。しかし、記憶はだんだんと、さらされ、私にとって、大切なことだけになってしまった。

 

 思い出すのは、手先が、とても、器用な人で折り紙を教えてくれたことだ。特に凝った七夕飾りの細工と、こよりのことは忘れられない。

 こよりって知っている人はもう、少ないかと思う。やわらかめの昔の鼻紙でつくる、ヒモのようなものだ、七夕飾りは昔はそれで飾られた。細工物に穴をあけ、真っ白いこよりを通して、笹にかける。とても、清浄な感じがして、なかなか、風情のあるものであった。

 それで、私は習いたかったのだ。しかし、教えられても、最後まで、できなかった。とても、強く、美しく作るのはむずかしいのだ。

 

  祖母は一生、着物ですごし、長唄などの邦楽を聴いて過ごした人だ。祖母と大人になってから、一度だけ、出かけたのが、都踊りだったくらいだ。

 

 その人は、そういった、着物のおしゃれにくわしく、芝居や、昔の音楽の話ができると人だったのだろう。また、母方の祖母に港近くの遊郭のあとに、連れて行ってもらったことがある。とても、困惑したが、私に教えて、あげたかったのだろう。

  

 ふたりとも、彼女を下に見ていたところもあるが、確かに認めていたのだろうと思う。世の中にくわしく、人との接し方を知る、職業人だったからだと思う。日本は貧しかった。女の仕事は女中か、花柳界ぐらいしかなかったのだ。その中で、女をはるため、おしゃれや世間を知っているのは、若い頃、ちょっと、うらやましかったのだと思う。

 

 最後は養子さんに引き取られ、亡くなられてたと、聞いている。祖母はお葬式には行かなかった。

 

 少し後ろめたい記憶で、親戚は触れたくないので、改変されもし、だんだんと私のなかでも薄れていく。関わっていた人もほとんど、亡くなられたりした。だから、もう、このように記してもいいかなあと思う。私がこの世の存在しているのは、その人のおかげだから。

 

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