oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

新撰組屯所の学習机

 いっとき、新撰組関係の本に凝っていたことがある。その中で忘れられないのは、京都、壬生の新撰組屯所であった八木邸のエピソードだ。八木邸を訪ねた人によると、新撰組芹沢鴨の暗殺された部屋が子供部屋に転用されていて、学習机が普通におかれていて、びっくりしたそうだ。そういえば、昔の家というものは、そういうものだった。

 だいたい、八木家が屯所になったのは、部屋があまるほどの大きな家だったからだ。強制的ですね。それをしぶしぶながらも、受け入れたのは、昔の家は部屋が余っていたら、居候をおくのが当たり前だったからだ。

 

 家を建てるのは、昔はたいへんだった。一本の木を切り出すのも、運ぶのも人力だ。だから、何年ももつ家を建てた。それをメンテする人も抱えなければならない。また、それを見越して、人々は大きな家を建てるのを手伝ったのだ。家には居候がつきものだった。

 また、大きな家を建てると、何世代も使った。寝たきりの老人がいた部屋は次世代の子ども部屋となった。いまだと、アパートで人が死んだ部屋は誰も借りないのでしょ。簡単に家を建てれない時代だと、片付けて、使い回しするのが、当たり前だ。その感覚で使い回していたのだと思う。

 

 なるほどなあと思ったのは、地震でつぶれてしまった、淡路島のひいおじいさんが建てた家がほぼ、そのように使われていたからだ。たくさん、お姉さんがいた、一人っ子だった、じいさんが、大阪に出た後、色々な居候が家に住んでいた。

 

 かつて、夏休み、学生時代、友達と遊びにいくと、まず、末のおじさんの妻であるおばさんが双子を連れて、これから、家に帰るからと、さようならと言ってきた。横に建てられた、書生のための離れから、身寄りのないおばあさんが、若い人だと、ニコニコとあらわれて、勝手にに母屋の台所から、缶に入った古いお菓子を進める。庭に出てみると、家の一部に間借りしてる住民がこんにちわと言ってきた。私に使え使えといってきたのは、どうやら、その人たちのいいわけでもあったようだ。

 

 末のおじさんが部活の合宿に使ったり、戦前は高田屋のかいぞうさん夫婦なる人も、居候していたらしい。高田屋嘉兵衛の弟の子孫で、奥さんが親戚だったみたいだ。極めつけは過失致死をおかした親戚一家だ。村にいられなくなったらしい。私が幼いときだ。どうにも、断れなかったのだろうか。きっと、八木家と同じ理由だ。家という物はなかば、公共のものだったからだ。

 

 だいたい、ひいじいさん自体が養子らしい。男の子は会津のようにしくじった藩士たちについて、北海道に移住して、亡くなったみたいだ。 じいさんは、また、後妻の子だったというのもあったらしい。昔の家とはそういうものだったみたいだ。ゆるい血縁、地縁のなかでのセフティネットとして、機能していたのだ。その時代のうっとおしさと、ありがたさ。その名残として、学習机の話は忘れられない話だ。

 

 今、やっぱり、八木家ではその部屋は使われてないらしい。