oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

チェーン店をけなす前に「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」

 

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ(字幕版)

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ(字幕版)

  • 発売日: 2018/01/24
  • メディア: Prime Video
 

  前から気になっていたマクドナルドチェーン店の創設者の映画を見てみた。こういう時、ネット配信の映画ってありがたいなって思う。映画館が好きだけど出かけていく手間を考えると選ばざる得ないから。

 マクドナルドの創設がマクドナルドさんたちで、チェーン化したのはそれを乗っ取った男だという悪評は知っていた。で、どんな風にいやなやつだったかって興味があった。まず、知ったのはマクドナルドは最初からおいしい料理を追求した店ではなく、ハリウッドで映画館を経営していた兄弟のエンターテイメント系の店だったことだ。フォード式のキッチンの効率化があり、そこそこおいしくて、清潔で家族向けの店だ。

 差別された人生経験豊富なユダヤ人、レイ・クロックはこの店がアメリカの効率化や白人中間層の幻想を形にした店だと見抜く。それは彼自身も夢見ていたことだったから。マクドナルド兄弟が会社を乗ったられたのは気の毒だけど、誰でもうまく経営できるマニュアルを作った時点で拡大は自然な形だったんだと思う。彼らが考えたマニュアルを忠実に必死に守ってお金を支払い、フランチャイズオーナーの利益を優先したクロックは充分に誠実だ。たぶん、拡大につれてのマニュアルの変更を許さない頭のかたさだとせいぜい10店舗ぐらいのユニークな店で終わったと思う。世界にあまねくチェーン店なんかいらない。確かに、それはレイ・クロックの問題だ。でも、おいしさと町の人との交流を目的としたありふれた店ではない可能性をもった店だったのだ。

 レイ・クロックがフランチャイズオーナーの妻を奪ったことも描かれている。マクドナルドの名前がほしかったという言葉もえぐい。でも、アメリカの文化とは何かって考え、その恩恵と罪について考えると、この映画の公平な表現は正しいと思う。それは物語でしか実感できない複雑なものなのだ。

 

 

取材する円朝「円朝ざんまい」

  円朝の語り本を読んでいると田舎の地名や様子が手に取るようにわかる。これは相当取材してるなってわかります。この前の鬼怒川の氾濫のとき、「真景累ヶ淵」の舞台であるあの辺りのジメジメ具合を読んでいたので、すごく納得しました。しかし、氾濫の多さが忘れ去られているのですね。なかったのはたった百年なのに、科学や土木の進歩はすごい、歴史は今から改変されているって感じました。古典を読む意味はそういうところにもあるかもしれないと感じました。

 かつて、谷根千というミニコミで、古い江戸の中心のひとつ谷中根津千駄木を紹介していた森まゆみさんが、故郷、谷中に育った円朝の旅を全集片手に旅した本。こんなにたくさん落語として語っていたんですね。残忍な「鰍沢」も原作だし、立川談志のおはこ、「黄金餅」も手がはいっているのか。その取材のあとを落語や旅日記、随筆から読み解いて尋ねた本です。

 さすがに多作なんで、落語として無理がある話も多く、古臭かったり、出来が悪かったりで、私だったら今はどうにも読みたくない話も多いんですけど、森まゆみさんはていねいに当たっている。そして、かつて円朝が取材した町で古きを知る人を探し出して聞き取っています。つまみ食いかもしれませんけどこういう本はありがたいです。本を片手にGooglemapで地名や店を検索して楽しみました。今もあるうなぎ屋さんのホームページを眺めたりね。それぐらい正確な描写であり、綿密な森さんの取材なのです。円朝が明治の著名人との交際を自慢にしていて、十分に自分の名声の恩恵を受け取ったちゃっかりした人であること、伊香保といった温泉をこよなく愛していたといった人柄の体温も感じられる。そして、大名題としての品格と教養、スケールの大きな人であることも実感されました。旅の相棒の元車屋さんの弟子もいたことも知りました。いだてんの宮藤官九郎、さすがの落語好きですね。車夫と落語家の関係はここにもあったのかな。

 育った谷中を舞台にした、今は語られない、円朝の僧侶であった父違いの兄への思慕が背景にある「闇夜の梅」の項、そして、やはり、谷中、根津、そして、栃木を舞台にした「牡丹灯籠」の項が面白かったです。牡丹灯籠で後半、幽霊話が下男、伴蔵の作り話で、実際は、お露に死なれた寄る辺なき新三郎の絶望に付け込んだ彼が殺したという告白は見落としていたことに気づいたな。全般に流れる、人間というものの歪さがテーマなんだということに改めて感じました。

  明治にはやった「塩原多助」で現地を綿密に取材してるにもかかわらず子孫の方はさけたというエピソードも面白いですね。空想を羽たかすことに重きをおいたのね。 森さんは円朝に代わり、しっかりと取材してます。「累ヶ淵」の舞台、常総市の鬼怒川の氾濫の多さもしっかりと取材されており、さすがですね。半島一利さんの解説で、実は森さんは円朝の本の編集もして、その後記で円朝を社会や風俗の調査報告者としていてとあって、私が感心したのはそこだよって感じました。そして、円朝がそれを土台にして、話を飛躍させることができる稀有な人だからいいなって思ったのだとわかりました。熱海のを舞台にしている落語では私が知っている地名がずらずら出ていてこのあたりも円朝が旅していたのだなと思うとうれしい。こういったエッセイは自分ができないことを体験させてくれるのでよいものです。ああ、旅に出たいって思いました。

 

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

ドラマ「令和元年版牡丹灯籠」を見る 下

 

f:id:oohaman5656:20191030125234j:plain
 で、ドラマの感想です。今回の主演は、原作で後半のヒロイン、尾野真千子演じる、お国です。なまめかしく、ふてぶてしい感じがあってます。したげられた女中という境遇が可哀そうです。群像劇になっているのでヒロインとしては弱いかな。お露さん役の上白石萌音は「舞妓はレディ」でデビューしたので、着物の着こなしはばっちりです。周防正行監督の怪しい映画なので、見てる人少ないと思うけどね。私は長谷川博己の狂気に、一時はまっていたので見ております。若手でこんなに着物の所作ができる人は貴重です。「君の名」のヒロインでもあるしね。新三郎は中村七之助。実は難しい役だと思うのです。学問はあって純粋だけど、心の弱い青年です。着物に慣れていて、純な感じの若手スターって思いつかない。「いだてん」でちょっと厚かまし三遊亭圓生を演じていたので、歌舞伎の人はすごいなって思いました。お米さんの戸田菜穂もなんですけど、時代劇になれたいい俳優さんで固めていて楽しかったな。面白い話なのはわかっているのでやりたかった人多かったのでしょう。東映の実験作、内田聖陽主演の「スローな武士にしてくれ」のスタッフが作っているようですね。

 残念なのは全4回の3回がお露編なので、1回で解決編にまとまっているところかな。新三郎を裏切って死に追いやった伴蔵お峰夫婦とトリックスターの医者、山本史杖のその後の話は省かれてます。ポケモンニャースで有名な犬山イヌコさんがお峰を演じています。近年、歌舞伎で強調して演じられている部分なので、伴蔵役の段田安則さん、山本史杖役の谷原章介さんも出番は少ないけど張り切って演じているので、それだけのパートも見てみたかったかな。

 原作では、お露の父の妾、お国がぐれた原因は家来の孝助を捨てた彼の母との因縁なのですが、ここは今の時代のモラルには合わないし、ややこしい経過があるので決闘シーンで物語を終わらせています。そこが省かれているのでお国の情念が分かりにくく、孝助が婿になった健康な家族、相川家とのやり取りで、彼が幸せになるだろうという確信が弱くなっています。そこは原作を読んでくれってことだろうと思います。

 この決闘から仇討成就の結末は新しい映像技術を使い、歌舞伎を研究した若手二人の演技で良かったですね。牡丹灯籠の隠されたテーマ、敗れ去った弱い人々の悲哀とそれを踏み越えて生きていかなければいけない若者が背負った孤独が映像化されたのは、青空の青が表現されたのはよかったなと思います。

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

 ちなみに初めてはてなブログです。

真景累ヶ淵

真景累ヶ淵

三遊亭円朝と民衆世界

三遊亭円朝と民衆世界

 

 この前、NHK円朝特集で著者が出ていて読みたいなと思っている本です。民俗学から怪談に迫った本らしいです。円朝の怪談は江戸末期の田舎の荒廃が描かれているので興味があるのですが、でも、ただただ、値段が高いです。

ドラマ「令和元年版牡丹灯籠」を見る 上

 f:id:oohaman5656:20191028233423j:plain


 子供のとき、テレビでときどきやっていた牡丹灯籠は、どうも面白くなかった。美女のお露さんがお米さんと牡丹灯籠をもって、深夜、カランコロンと下駄を鳴らして現れるのはロマンチックなんですが。新三郎が取り殺されるとわかったら、コロッと態度が変わってお札を張りまくり、召使伴蔵お峰夫婦が、幽霊のお米に百両でお札はがしを頼まれて裏切ってしまったりで下世話に変わるので白けてしまった。貧しい生活から抜けるためにモラルを投げ捨ててしまう四谷怪談伊右衛門はわかりやすい。

 のちに原案のひとつ、中国の小説「剪燈新話」の短編を読んでやっと納得した。科挙の試験に落ちまくっている青年が、深夜、女中をつれて牡丹灯籠をもった良家の美女に会う。取り殺されることが分かって、お札を張るが、性欲に負けてはがして取り殺されてしまう。わかりやすい。ぼんやりとした成功を夢見る受験生の皆さまには身につまされる話です。お札を渡した老師は、掘り出した棺桶に一緒に入っている男を見て軽侮します。作者はいい思いがしたいという生の欲望を乗り越えて文学で名を遺したわけですから。この話は裕福なおうちが結婚前に亡くなった子どうしでお見合い結婚をさせる習慣を背景にしていて、有名な映画「チャイニーズゴーストストーリー」なんかの元ネタでもあるらしいです。その後ふたりは夫婦幽霊になって町の人を取り殺して、うんざりぎみの老師に退治されます。面白残酷なはなしです。

 作者の三遊亭円朝もここまで翻案してハタと思ったと思います。ロマンチックな牡丹の美女とみっともない男、落語としては、そこそこまとまっているけどカタルシス(浄化)がない。で、歌舞伎によくある仇討話の収束をどうにか取り入れてみたい。円朝は落語で歌舞伎を、大きな物語をやってみたかった人なんだと思います。二度目の奥さんが明治の怪優、澤村田之助の奥さんだったりする人です。で、全13夜あった長編となってわけです。しかしながら、娯楽の種類が多い現代、悠長に寄席に来る客はいない。まして、そんな二つの話をふくむ分かりづらい長編を語りつくせる力量の人もそういない。

 だから、さわりのお札はがし、大金を得ることで、貧乏と苦労でひん曲がった心根が爆発した夫婦の悲劇、お峰殺しがよく演じられたわけです。面白い話ですがカタルシス(浄化)がない。実際、今までの映像では、ほぼ、お米のたくらみを避けて、お露新三郎の純愛になっています。だからなんでしょうか、立川志の輔が下北沢で長年短縮して工夫し形で 牡丹灯籠の全編を演じ続けて普及させたわけです。それを見て、普遍性をみての今回のドラマ化なんでしょう。

 全編みてみるとこれはお露の実家、心すさんだ旗本飯島家が、一途な黒川孝助に乗っ取られる話です。たぶん、お露もお妾で主人を殺すお国も陰謀をめぐらすお米も、そして、伴蔵夫妻も封建制の犠牲者なんですね。本人たちにも気づかない心の傷を底に持っている。それが変化によって表に現れていく。そして、過去の因縁により、主君を刺してしまった孝助に未来を託す。主君とは父、社会ですね。それに対する感謝と憎しみ、苦い思いを抱いて、孝助は生きていかなければならない。そういった物語です。落語では青空を見上げる彼で終わるのですが、大人になることの象徴なんかなと思います。

 ドラマの冒頭で孝助は敵と知らず飯島平左衛門に試し切りで殺された父のことを悪し様に語ります。親に捨てられて、人の顔色を見ながら優秀に育った彼はいじけた弱い奴が大嫌いなんです。そして、剣の達人で成功者の平右衛門を理想の父として選ぶのです。今回は若葉竜也が演じているんですけど、恋愛の不条理を描いた映画「愛がなんだ」でいいなって思った俳優さんです。元は大衆演劇の子役さんだったらしいですけど、カメラマンという芸術志向の青年を演じてます。ふつう庶民性を売りにしそうですけど、すごく向上心がある人なんでしょうね。そのあたりこの青年にぴったりです。日舞で鍛えた所作も美しい。対するお国の愛人は柄本佑。このブログで紹介した「雲霧仁左衛門」でレギュラーを取っています。だから、この人も所作もチャンパラもばっちり。原作では汚らしい男ですさんだお国にリアルなんですけど、今回は決闘で終わるんで男らしいところがある役になっています。この人はお母さんゆずりの美しい体をしているのがいいですね。着物が映える。ドラマなんですけど、映像を大事にしているのが新しい東映っぽい。と。ドラマの見どころと感想になりまする。後半に続く。

 

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

 

聞き書きなので、 口語体で読みやすいです。近代文学の祖っていうのが伊達じゃないです。

 

桂歌丸 口伝 圓朝怪談噺

桂歌丸 口伝 圓朝怪談噺

 

 同じく円朝を語った桂歌丸さんの本です。ドラマの語りは講談の神田松之丞ですが、若手のシリアスな話を語れるスター落語家さん出てきてほしいですね。

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

 このブログは、ちょっと、文章がひどいのですが。江戸時代の芸能への興味から。

 

 

 

田辺聖子を改めて読む2

 短編集「感情旅行センチメンタルジャーニー」を始めて読んだ。その中で驚いたのは戦争体験からくる虚無感と怒りの感情の強さだった。たぶん、女性目線では生々しくて書けなかったのだろう、男性が主人公の短編集だ。最後の「玉島にて」が唯一、女性が主人公だけど、私小説的なものだ。初期のものなのでバラエティがある。

 「感情旅行」は、60年代前半に書かれた。生きていた時代なので、かろうじて実感できるけど、舗装されていない道の土埃のにおいが浮かんでくるような映像的な文章だ。ずっと思っていたけど、そこが田辺さんの文章のよさなのですね。この本では、その当時の貧困のさまをありありと思い出した。クーラーのない暑さや夜のいかがわしさ。主人公の恋敵の共産党にかぶれていたりする男も実感がある。といういか、父の兄がかつて共産党員で女たらしだった。さっさとやめて快楽主義者になった。彼が、海でカキやらアワビやらを仲間と密漁しにいくことを自慢するのいやだったな。この小説の男は忘れたように家庭におさまってしまう。そうゆう人も多かったろうな。この本を読んで、叔父のその背景にある虚無にやっと気づいた。そういえば、あの兄弟たちは十代、学徒動員で、田辺聖子と同じように大阪市内の工場に行ってたはずだけど、うまく言語化できないようだった。

 表題作はそのごちゃごちゃの感情を無頼な男女の恋愛に落とし込もうとした小説だ。あきらかに織田作之助林芙美子の戦後を描いた小説の方向性のさきをめざしたものだと思う。その後のエッセイで読んだけど、東京に出てこの方向性で進むと、いい作品はかけたかもしれないけど、その感受性と観察眼で増幅した怒りで自分をも傷つけていたんじゃないかな。

 最後の本人をモデルにしていた「玉島にて」は、朝ドラとかの映像作品での田辺写真館の楽しさの裏側をえがいていてどきっとした。あれは、没落した実家をもつ母の犠牲のうえにきずかれた楽しさだったのですね。成功した祖父の横暴さ、父のちゃらんぽらんなひ弱さが遠慮なくあばかれてますな。作家になった主人公と母は、戦後直後たよった岡山県玉島に行く。その一瞬は輝かしい美しさだった。しかし、親族も亡くなり縁とおくなった母の故郷は薄汚くそっけない。戦後の生活苦に疲れ果て、人への不信感をかかえた主人公は考えよどむ。しかし、これからは光のある暖かいほうへと願う。田辺聖子の小説は80年代にはガラッと軽妙に変わる。写実性はクリスタルボンボンや貝殻の石鹸といったぜいたくのあざやかな色彩を写す。それは時代に寄り添ったんだと思う。母が言ってて忘れられないことだけど、60年代は前半と後半はまるで違うと。これは多くの人が感じていたんじゃないかな。

 田辺聖子の作品に一貫しているのは、社会がふくむ暴力が弱いもの、かよわいものを踏みにじることに対する怒りだ。それは人間の獣性への好ましさとあきらめとを含んでいるような。それを古典と恋愛で読み解こうとした作家さんだと思う。そして、関西弁にこだわり身近な大阪の人たちを描いた。学校の回覧文集ではじまった、そういった人とのやりとりの個人性を大事にした作家さんだと思う。それがうたたかな抵抗であることを本人も自覚しててひっそりと去られたかもしれない。

 

感傷旅行 (角川文庫)

感傷旅行 (角川文庫)

 

 

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

oohaman5656.hatenablog.com

 

 

田辺聖子を改めて読む1

 先日、田辺聖子さんが亡くなった。NHKのニュースでは「感傷旅行」で芥川賞をとられたと悼まれていた。ちょっと、違和感があった。賞をもらったという切り口しかないのか。「私的生活」などの恋愛もの、古典をかいつまんで解説したもの、評伝、源氏物語の現代訳も手掛けてられる。映画になった池脇千鶴の名演がひかる「ジョゼと虎と魚と」、感想では最近の小説と思い込んでる人が多かった。彼女のしごとのいくつかは決して古びてはいない。

 テレビなどの表舞台に立たれなくなって久しいし、90代になられて同世代のファンのひとも亡くなったし、そんなもんだろうとかもとも思うけど。そういえば、その「感傷旅行」は読んでないなあと思った。それで、なつかしい、「苺をつぶしながら」、「私的生活」とともにをあらためて読み直してみた。

 「苺をつぶしながら」この語感すきだったな。ニュースでかちんときたとき、すぐ思い出したのがこの小説だ。いちごがすっぱかったなんて今の人はわかるかな。それをさとうとミルクでぐちゃぐちゃにして食べる。その生々しさ、自由に生きる女性の象徴だ。友人である、男を食い散らかしたとされる女の末路も毅然とえがかれていて、甘いだけの恋愛小説ではない。

 その前編の「私的生活」は結婚に向かない男女の結婚のあとさきを過不足なく描いている。今回、読んで、覚えていて驚いた。あのころはお金に不自由していたのもあって、何度も読み返していたのもあるけど、それだけではなく、教訓も刻み付けていたんだと思う。世間知らずの私が、たまに男におだてられたしても、男の情けなさとかに気づいて、有頂天にならなかったのは、これらの小説を読んでいたからもあったんだよなって感じた。

 今回読んで改めて気が付いたのは、女の仕事場のマンションに行って日記を盗み見たりの男のあまりにも暴力的な行為をきちんと描かれていたことですね。そこがその男の魅力でもあり、欠点でもある。そのことを象徴する猿山の描写が秀逸だ。獣としての人間が作った社会の暴力性、それにしっくりいかない人たちがが感じるおかしみ、あわれみ。

 最後に夫は、妻が別れても、どうしてももっていきたいと大切にしていた亡き姑の遺品を打ち砕く。ここまでかと思った。母の中の女性性の象徴で、欲望のつよい彼は、それに対するあこがれと不満があったんだと思い知らされた。支配と愛のごちゃまぜがわからない男の幼稚さ。結婚は経済のからんだパートナーシップだと思う。男性性と女性性をお互いに求めるのは恋愛で、結婚という形に持ち込んだら嘘になってしまうという厳然とした事実。 

 今回、亡くなられたあと、読書好きの年上の友人と話したとき、やはり、これらの恋愛小説のはなしになった。あのころ書店でバイトしてて、田辺聖子の円熟期のこれらの本が同じ時代に生きた、30前後の女性たちに楽しんで読まれているのを見た。それは幸せなことだったなっと思った。

 

私的生活 (講談社文庫)

私的生活 (講談社文庫)

 

 

苺をつぶしながら (講談社文庫)

苺をつぶしながら (講談社文庫)

 

 

  改めて、近年読み続けられているらしい。おもに恋愛まんがを読んでいる人たちが読者層だったという記事を読んだりした。

 

「源氏物語」物語は、なぜ始まるか。巻8「宇治十帖」テーマは繰り返される。

 

f:id:oohaman5656:20190624133351j:plain

 源氏物語のラスト、「宇治十帖」は紫式部の作品なのかと、ずっと源氏オタクのなかで言われています。というのは、登場人物が欠点のある人ばかりであること、今までの華やかさがないからだと思います。書き切れてないところも多いですし。でも、今までいろんな形で源氏を読んできた私としては、紫式部が書いたんじゃないかと思っています。

 現代訳もある瀬戸内寂聴さんは宇治十帖は紫式部が書いた、私が出家したからわかる。出家という形で世の中から一歩はみだしたからだって言っておられます。それはわからないですが、晩年、近松門左衛門がそれまでの男女の痛切な愛情を描いたものから、一転、不条理劇「女殺し油地獄」を書いたように、しがらみから居直って、書きたいものを書いたんじゃないかと思います。まして、長編の書き方も見つけたわけですし。

 ちなみに「女殺し油地獄」は陰気な話ってことで、明治まで舞台にかからなかったらしいです。私は好きなんですけどね。映像で見たんですけど、人形が油にまみれてのたうちまわるのがすごい芸を感じます。この前見た、五社英雄の映画も好きですね。樋口可南子藤谷美和子の演技がすばらしい。だいぶ、翻案されていますが、原作の力が演技を引き出してます。

 宇治十帖は設定が最初から決まっていて、とても、近代的です。祝祭的な最期がないのも特異です。最初の登場人物は宇治の別荘に暮らしている不遇な皇族と母を亡くした二人の娘です。ここで、あれって思いませんか。若菜のふたりの皇女の話が繰り返されているんですね。

 女二宮の息子、薫は生まれのためか悩みがふかく、教養人である八条宮のところに学問や仏教を学びにいきます。そうしているうちに娘のひとり大君に恋をするのですね。ところが彼女は男嫌いで、彼を拒んで死んでしまいます。なぜか、近くにいる父がろくでもないからですね。現代でも、田舎に家族をむりやり連れてきて孤立させる、理屈っぽいインテリで家族を不幸にしてるやつって結構いますよね。

 ここで、私は、紫式部の生い立ちが源氏の物語の低層に反映されて、やっと表に出てきたと思っています。彼女は不遇なインテリで地方役人をしていた男の娘なんですね。母を早く亡くし、たった一人の姉も若くして亡くしています。彼女が描きたかったのは父というものが含む世の中なんだと思います。物語を通してそういった不合理にこたえをもとめていたんじゃないかな。権力やらシステムで人がゆがめられていく。

 宇治十帖は主人公が観念のせかいの人なんで、彼女が亡くなると面影を求めて、妹の中君、腹違いの妹の浮舟とさまよっていきます。自分のなかの幻想を求めてるんで、もてるわけがない。それらの人にことごとく裏切られる。面影を求める人をリアルに描くとそうなるんです。

 ヒロインは浮舟です。皇女の理想を求め、教養がないとか、幼いとか、薫は常に身分の低い彼女を貶めます。浮舟は誠実であわれな薫を気の毒に思いますが、華やかで欲望に忠実な源氏の子孫、匂宮にひかれていきます。でも、彼は快楽主義者なんですね。常に欠落を埋めていくんです。そして、どちらにも大切にされないと悟って、彼女は自殺をはかってしまう。そして、若いがゆえに死にきれず出家します。今まで出てこなった抗議するヒロインなのですね。今までついてきた読者に刃を突きつける。

 私は浮舟のお母さんが結構好きですね。この物語の救いかもしれません。彼女は八条宮の妻の親せきの女中で、彼女をなくした宮様に同情してくっつくのですが、妊娠したら、おれは仏教を研究する、女は絶ったからって、粗末に捨てられてしまいます。それでも、さっさと裕福な地方役人とくっつくのですね。その中でも娘に愛情深く接します。美女になった娘が田舎の有力な人に求婚されるのですが、力のある夫の娘に乗り換えられます。そして、夫や実の娘でもそういうことが平気な人をほっといて娘と上京するのです。愛人になった娘に妥協はもとめますが、意思のある人です。モデルがいたのかもしれませんね。

 しかし、世の中は厳しい。せっかく仏門にはいったのに、薫に見つけられたことを知った助けた人たちは還俗をうながします。有力者の愛人であることのほうが尊いってことなんです。これは幼くして妻にされる若紫と同じですね。権力の力でいくらでも人生はたわめられるのです。物語はその答えをもとめて始められました。

 つらつら、源氏物語について書いてみましたが、若菜が一番難しかったかな。この時代の恋愛は、男が押しかけることから始まるからです。今でもごはん食べただけで、好きにしていいんだという男がいるくらいなんで、女二宮の欲望と絶望の加減が説明しづらいなっと思うし。自分の中の鈍感さをあぶりだされるようでつらかった。やはり、「若菜」が源氏物語のクライマックスなんだと思います。書いてみて、たしかに以前より柏木はわかったような気がします。世の中に甘やかされて、承認と愛情がごちゃ混ぜになっている男ですね。相手をみてないので、愛されないわけがわからないので破滅的になってしまう。

 このつらつらした文章は主に学生時代とその後の読書の感想みたいなもんなんですけど、その後の新しい研究とかあったら教えてください。まず、最近、映画「愛がなんだ」で注目した角田光代さんの「源氏物語」の現代訳読んでみたいです。

 この文章はやっとこさ書いたので、これからも修正もちょこちょこしていこうと思ってます。では、読んでくれてありがとうございます。

 

oohaman5656.hatenablog.com

 宇治十帖を時代変化的に語ったものです。男の作った社会を支持してるのは女なんだってことを書きました。

 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

 これから読んでみたい本です。源氏物語の現代訳はきっと若い人への入門編になると思うよ。でも高いんですよね。図書館にあるかな。

 

 

oohaman5656.hatenablog.com