oohama5656's blog

日々の思いを言葉に出来るといいなあと思っています

忘れたことの忘れられないこと 波津彬子「玉藻前」

 波津彬子、漫画文庫で「玉藻前」か、ふむふむ面白そう、なんかすごく読みたい、なぜだろう。そこで、はたっと思い浮かんだんですね。それは子供のとき、何度もテレビでみたアニメで、 ヒロインが「玉藻前」というのがあったのですね。悪に染まったヒロインが改心せず、主人公の片思いで終わるという話でした。悪を為す人はある地点で引き返せない。心が冷めたら、ひとはもどってこない。そして、報われない愛に殉じる主人公のけなげさ、つらい話でした。SNSで調べてみると、「九尾の狐と飛丸」という題で、どうやら原作がおなじ岡本綺堂らしい。昔だったら、なんだかムズムズするということでおわり、わからなかったかもしれませんね。

 もともと、「玉藻前」の話は 保元、平治の乱が、鳥羽天皇の女性関係が原因のひとつだったのと、そのころ発見された那須温泉の毒である硫化水素のでる泉源にある、大きな石「殺生石」との話を結びつけた説話だったようなんですね。インドの悪女や殷の妲己の生まれ変わりである玉藻前が、鳥羽天皇をたぶらかすはなしで、僧侶が作った話っぽいですね。

 漫画の解説によると、岡本綺堂は、「玉藻前」をフランスの古典的な吸血鬼小説、「クラリモント」と結びつけたらしい。修道士とその師匠と吸血鬼のはなしだそうです。どうやら、性的な堕落と戦うはなしのようです。なんというかミソジニーっぽいです。岡本綺堂はその二つのはなしを大胆にも若い男女の悲恋ものに構成しています。だから、鳥羽天皇に会う前にはなしは終わってしまう。若い男女の死とエロスのはなしですね。

 しかし、この話をアニメ化しようとよく思ったなあ。子供向きではない。大映系のアニメ会社若尾文子の映画をとっていた増村保造が関係してたようです。だからかな、悪女に翻弄される男の純情のはなしなのは。ちょっとナルシステックだった。

 ところで、ほぼ忠実に再現された漫画では、玉藻前は悪に支配された女でありながら、主人公に心を寄せ、誘惑しようとします。悪女でありながら、純情なのですね。アニメと原作どちらが正しいというわけではない。どちらもありで面白いです。

師匠がねちこく説得する、それに応じて、主人公はヒロインを追い詰める。同性愛的な感情もえがいていて、複雑です。女性に対する恐怖に対しての、男社会の誘惑といったところでしょうか。これは、アニメでは、さすがに省略されていて、師匠は影が薄いです。純情な乙女のなかにあった悪のこころ、それが何かしらの邪悪なものに操られてることになっていても、それは彼女の意思でしょう。それでも、主人公は彼女に殉じます。

 波津彬子さんの「玉藻前」はそんな救い難きと戦う愛についての物語を、流麗な絵とたくみな構成で見せてくれます。堪能しました。そして、悪とはなにか、欲望とは、救いとは、一筋縄ではいかない作家、岡本綺堂のせかいに導いてくれます。

 

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

幻想綺帖 二 『玉藻の前』 (朝日コミック文庫)

 

 アニメについてはこちらのサイトのコラムで知りました。元々はやはり、実写の企画で、スタッフは、横溝正史ドラマ「悪魔が来りて笛をふく」を作ったひとやガンダムに関係したひと、アニメ「どろろ」なんかのひとだったようです。

eiganokuni.com

 

「逃げるは恥だが役にたつ」自意識のもんだい

f:id:oohaman5656:20161214214643j:plain

 ドラマ「逃げるが恥だが役にたつ」SNSで評判だったのでぼんやり見だしたのだが、これがびっくりするほど刺さったので、感想を書きたくなりました。ちょっと昔の時代劇やらに新妻ものというは結構ありましたね。かつてのお年寄りはそれに結構萌えたのだ。今の人はあほらしいって見ないかな。でも、アラブの王様に囚われた主人公がだんだんととか、少女漫画でも定番ですね。その現代版みたいな感じで見ていました。

 新味としては童貞をこじらせたっぽい星野源と、とびっきり可愛い新垣結衣が主役なことだろうぐらいだ。新垣結衣はあんまし興味がなかった。わたしの中では「恋空」っていう、トンデモ映画に主演したっていうイメージがあります。間違った努力でも熱意があれば恋に落ちるっていう幻想を主人公ふたりの可愛さでねじ切った話だ。実際このドラマでもお料理が上手で、引っ込み思案だけど、頭のいい、今の理想の女の子を演じている。守ってあげたいって感じですね。就職に向かない子が、契約結婚でお給料をもらうことを提案されるのだ。これもよく聞く話で、わたしなんかも家事やらお給料にしたらいくらと冗談で言い合ったりしたことがあります。

 それが、えっと考えさせられたのは、副主人公の風見さんが、星野源演じる、ひらまささんが、かつて付き合った初恋の人と似ていることを指摘し、新垣結衣演じる、みくりさんの恋心を認めて、彼女をあきらめる9回だった。そうなのだ、狙っている女の子が許してくれるだろう理想の女の子に、風見さんの彼女は負けたのだ。彼女は風見さんのそのままの彼女でいいという気持ちに気づかず、自分がどう見られるかのほうが大切だったのだ。それって、いじらしいと思うけど、自分のことしか考えていない。たぶん、ひととは違うことを肯定できなくって、ひとに深入りできないひと多いと思う。はたから見ると、ちょっとしたことなんですけどね。それじゃいけないっというのがこの話のキモなんだなと、すごく面白く感じた。それ自体はそんなに新しい話じゃない。原作のひとが前作で鎌倉時代後期の「とはずがたり」を漫画化してるのってヒントだな。古典に多い身分違いの恋というのは、深く探っていくと自意識のもんだいにつき当たるのだ。だから今でも考えさせられませんか。

 周りに承認されることを求めるあまり、相手を受け入れることがみえなくなる。ひらまさくんが恋愛が成就したあと、迷走してしまったのもそうですね。養うのが男っていう社会由来の幻想に目が眩んで、相手がみえなくなる。でも、みくりにも問題があって、雇用ってお手伝いであって、相手に従うことでも依存することでもない。だから、結婚で給料がなくなることは愛の搾取って思うのは、それは元々対等でないからと思い込んでたから。どっちもどっち。夫婦って共同経営者なんですよ。本来。それは社長を実は社員が養っているのと一緒で、社員が気持ちよく働いてくれなければ会社は動かない。確かに社長さんの夢を実現するため、利益を上げるために会社はあるとしても、手伝いがないと動かないっていう意味では対等なんじゃないか。そんなことも考えてしまった。まあ、そんな簡単なことではない、社長さんになれるのは元々お金持ちで、社員さんにお金があげられってこと多し、人脈もある人多しで特別なひとっぽいしで、簡単ではないですけど、でも本来、上下があるわけではない、役割があるだけだ。なぜなら、ひとはひとりで何もなせないから。って脱線してしまったけど。

 つまり、限界のある別なひとたちが、一緒に生きたいから夫婦になるんです。だから、プールされたお金から、本来は堂々とお互い、お小遣いと休暇を請求できるしです。そして、どちらかが倒れても、そこに信頼と愛情の実績があれば、なんとかしようって思うはずだなんて、理屈っぽく考えてしまいました。うん、たかだかドラマで熱くなってしまった。新垣結衣ってコメディうまいって思って、初めていいと思ったし、星野源は感じいいし、恋ダンスは可愛いし、石田ゆり子はさすがだし、気楽に今の感じを楽しめばいいんだけど。

www.tbs.co.jp

善意こそがひとをそこなう「みんな彗星をみていた」

  遠藤周作の「沈黙」は私の好きな小説のひとつだけれど、いまいち背景がわからなかった。そういった悶々に答えてくれたのが、星野博美さんのノンフィクション「みんな彗星を見ていた」だ。このなかで星野さんがカトリックの世界への宣教は最古のグローバル企業で、マグドナルドみたいなものらしいと書いている。読んでて、彼女のインタビューにもあるが、どうやら、今、世界は、そのころの罪悪の清算をしているということにしみじみ共感した。そこにある、善をなそうとすることに、ひとは追い詰められるのだ。

 日本布教の頃、ヨーロッパではカトリックが、科学の発展や新しい新教、そして新大陸の富による腐敗で追い詰められていた。そこで、折しも始まった大航海時代、新しい土地、東洋への布教が決心されたらしい。そして、選りすぐりの優秀な人たち、家柄もいい、街の誇りのような若者が、宣教師として、各地に送られた。海を乗り越え、苦難を制した、筋金入りの人たちだ。そこへ既成の宗教に飽き足らない、心病んだ戦国時代の日本の人々が群がったようだ。最初にはいったイエズス会では、日本の高僧の行いを参考に、潔癖な日本人に合わせたマニュアルまであったらしい。

 そんな、深く日本人の心を取り込む様子を恐怖して始まった、キリシタンの弾圧は、元々、過激な浄土真宗からの転向が多かったりの深く傷ついた人々を追い詰め、そして、その人たちに共感し、居残った宣教師たちに、残酷な殉教を強いることになった。そして、信者たちはいつしか、殉教した人々の遺体につよく執着し、死を望むようになり、いよいよ邪教として扱われた。どうしてこんなことが起こったか、星野さんは、先祖の地にあった難破した南蛮船との交流の記憶にみちびかれ、中世の楽器リュートを学び、キリシタンの遺跡をめぐり、宣教師たちの文章をよみ、彼らの心を探っていく。

 彼女は、キリシタン迫害の現場、長崎の片隅に残された最初の殉教者を祀った教会の跡地、宣教師たちがほぼいなくなって、教義が土俗化して追い詰められた人々がこもった島原などをめぐっていく。それらは、今も世俗の権力に逆らっため、教会にも、日本にも無視されている。彼女は、権力者の感情的な行為、ローマの冷たさ、そんなことを見なかったことにして、長崎の教会遺産とはばかばかしいなあと、本のなかで疑問をもっている。それは、キリスト教系の学校で学んだとき感じた違和感でもあるらしい。

 そんな残酷な人間の現実をよそに、その当時でも、ヨーロッパでは、すぐさま、日本で起こった殉教が、熱狂的に絵画や演劇にされ、日本人の残酷さが強調されたらしい。ヨーロッパは日本を凝視していたのだ。そして、それは、ある意味、世俗化する前のカトリックが最後の輝きをもった、日本への布教の興奮だったのだ。そのなかで、「沈黙」で描かれる、上流階級出身者が多い、イエズス会のリーダーのひとりフェレイラがころんだのは、衝撃的なことだったらしいことも納得できる。

 しかし、それでも、大概の現実的な選択をしたなかで、一部の宣教師たちが、その殉教を引き受けたのか。それは、海を越えてまで、悩む人々に真摯に耳を傾けた、彼らへの尊敬と、そのひとたちを一途に信頼し、正しく生きようとする信徒たちへの宣教師の尊敬が起こしたことなのだ。結局は、ひとはひとを切実に必要としている。実に人間くさいことなのだ。たぶん、その後の植民地などで行われてた営みなのだろう。それが文化や秩序の破壊、そして搾取につながっとしても。愛というのは厄介なものだ。

 星野さんは最後、殉教者の故郷スペインを訪ねる。そこでは、バスクの首都とも言える大都市の教会が軽侮され、信者が集まらない。そこの信徒だった、びっくりするほど優しい男は忘れられていた。そして、最後に訪ねた小さな町の教会では、なり手が無く、コンゴ人の牧師が支えているありさまだ。そのなかでも、町のほこりである殉教者を忘れない人々がいる。彼はただ、日本のカトリックの歴史を報告しただけのひとだ。しかし、町のほこりだった青年だった。そして、彼が40万人もの日本人信者のために戦い、そして幾人もの同士ともに死んだことに初めて知り、彼らは涙する。そんな宗教とはなにか、日本人になにをカトリックがもたらしたか、人間とは何かを求める旅が記されている。

 

chinmoku.jp

 

 今のカトリックの現実

 

 

 映画「この世界の片隅に」ものがたることの意味

 

f:id:oohaman5656:20161202181554j:plain

 こうの史代さんを知ったのは、評判の良かった「夕凪の街 桜の国」を立ち読みしたからだ。本屋さんで涙が止まらなくなって、連れて帰りました。私は滅多に涙が出ないので、びっくりした。原爆のはなしで泣いたのではない。特別なはなしではなく、私にもあった失った誰かを悼むはなしだったからだ。特に目に焼きついたのは、ふたつのものがたりにつながる男がたたずむ、川岸の二枚のこまだ。がちゃがちゃした原爆部落のバラックを背にした若々しい青年、そして、何も無い河川敷にたたずむ年老いた男。かつてそこに存在した家々のことも、生活していた女性たちのことも忘れ去られてしまっている。しかし、いかにこの男の人生に、その女性たちは影をおとしていることか。疎開によって原爆をのがれた子供だった彼は、体験していない多くの人々の代表なのだ。体験した人々の特別な体験に押し込められ、いなかったことにされた人々の恨みつらみ慟哭を、ひっそりと彼は聞いていたのだ。それを見ていた私に、かつて、田舎の墓場にある名もなき墓標をみて、彼らがなにかしら私に関係があることに、ぼっーとなってしまった記憶がよみがえってきたのだ。かれらは確かに生きていた。そして、なにかしら、私の人生に関わっている。

 そんな前作を踏まえて、漫画「この世界の片隅に」は身体化したこうの史代自身の呉の記憶から、より深く、かつていた、戦争で傷つき、生き抜いた人々をよみがえらせようとした。だから、漫画の中で日常をあれほどまでに詳細に再現する必要があったのだと思う。映画「この世界の片隅に」は、そんな、こうの史代の試みを、日常のなかにふとあらわれる亡霊を感じる、多くの人々の思いを集めることで傑作となった。なぜならば、アニメーションが絵をえがくという思念で動きを再現すること、そして多くのひとの絵を集めることで成立するジャンルだったからだ。作品のなかで絵を描くすずさんは、心の中にあったものさえ再現しようとする、こうの史代の分身でもある。そして、そんな作者をかたしろに、死者をよみがえらそうとした、とんでもない映画なんである。

 主人公のすずさんが、映画のなかで「のん」さんの声を借りて、みずみずしい体をもつ18の乙女から、成熟した女になっていくことを官能的に描かれていてるのはいいなあ。若い女というものは、母になるうつわであるがため、人類の無意識の希望だ。戦争が壊滅的に呉を破壊し、そして人々の心を歪めていくことと重なっているのは、どんなに死の世界がかたわらにあっても、自然というものは動いていくことを示していて、よかったなと思う。戦争の詳細な描写、壊滅した呉のまちのようす、原爆の広島の夜、残酷で無残な描写も胸がいたい。でも、私が一番に印象に残っているのは、幼いすずさんが原爆で失われてしまった広島の繁華街の雑踏で、道に迷ってぼっと我を忘れているショットだ。なんと、隅っこにいる、か弱く頼りないものであることか。そして、彼女はある夢をみている。それは彼女が出会うであろうひとだ。もしかしたら、それは夫の周作の夢かもしれない。誰かの夢かもしれない。私たちはかつて生きていたひとを想像することができる。そして、それこそが供養で、自分の今生きていることに感謝し、生き抜く糧になることなんだと思い出させてくれる映画だ。

konosekai.jp

 原作の感想です。「さんさん録」も好きです。

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

 



 

 

 

 

 

 

 

アン・ブロンテ「アグネス・グレイ」とオースティン

 

ブロンテ姉妹 ポケットマスターピース12 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ Z)

 

 編者の桜庭一樹さんのtwitterに惹かれて、ブロンテ姉妹の末っ子のアン・ブロンテの「アグネス・グレイ」を読んでみた。アンも小説を書いていたのは知っていたが、きちんと紹介されたのは、初めてなんじゃないだろうか。巻末の作品外題でも指摘されているが、のちのジェーン・オースティンに似て、するどい社会批判がある。特に、「偏見と自負」のあとに描かれて、評判の悪い「マンスフィールド・パーク」に似ていると思う。どちらも最近になって再評価されたのもわかるような気がする。植民地からの富にスポイルされ、モラルが緩んでいる社会に対する疑問として書かれたんだなあと感じた。両方とも福祉にはげむ牧師との結婚という、当時としても面白くない話で終わっているので評判がわるいけれど、お金ではない価値観を求めて描かれたんだと思う。宗教に頼るのは、当時の限界かもしれない。

 貧しい中産階級に生まれて上流階級に養われた主人公ファーニーは作られたヒロインだけど、「アグネス・グレイ」は狭い範囲ながら、上流階級で家庭教師として働いたアンの実体験をそのまま描いたので、とてもリアルだ。そのなかでアンが見ただろう、 お金にスポイルされて、地位があってもろくでなしの男に平気に娘をおいやる愛情のうすい母親の姿、そして、美貌をちやほやされることに流されて、その本質的な辛さに目をつむる娘の哀れさに対するきびしさはなんだかなと思うけれど、本当によく描かれている。不幸な若い娘のアンが、世間の狭さ、生真面目さや妬み嫉みも含めて同情的に書いているのもいいなって思う。「マンスフィールド・パーク」も親にちゃんと教育されず、本人たちも思い上がってモラルのないことをして、不幸になるわがまま娘たちの末路が描かれているけど、その内面の幼さには厳しい。

 当時の社会で跡継ぎになりえない女の子を産んで、夫にないがしろにされた娘の「私が女の子を育てて、なんの喜びを得られのかしら。あの子は私をどんどん越えていくでしょう。私が永久に禁じられた数々の喜びをあの子が楽しむことになるのだから」というセリフはすごいと思った。これは不幸の再生産だろうと思う。アンは貧しいアイルランド人のたたき上げの牧師の家に生まれ、教師というひとを導く仕事をしていたから、観察できたのだろう。同じことをテーマにしても、成功した家に育ったオースティンはいかに勝ち抜くかの知恵の話にはなっても、敗者の救済には思い煩わない。ただただ、悲しみを感じるだけだ。そして、新しい時代の生き方の提案に目が移っていく。エンターテイメントのプロの作家だ。

 アンの小説は次作の「ワイルドフェルホールの住人」のほうが評価が高いらしい。こちらはずばりDVを受けた女性が立ち直っていく話だ。アンがまきこまれた兄の悲惨の人生を反映しているとも言われているけど、救済がテーマなんだろうと思う。主人公が、最後、身分の低い男性を結ばれるというのも面白い。たぶん、アン・ブロンテは未完で終わった才能だけれど、あの当時のインテリ女性が、社会をどう思っていたかのヒントを与えてくれるひとなんだと思う。植民地から搾取したお金で発展した社会とモラルの問題は、今日的な社会の混乱の元になっている話であるな。「ワイルドフェルホールの住人」はドラマにもなっているらしい、ちょっと見てみたい。

 

ワイルドフェル屋敷の人々 アン・ブロンテ原作 [DVD]

ワイルドフェル屋敷の人々 アン・ブロンテ原作 [DVD]

 

 

oohaman5656.hatenablog.com

 

日曜日 雑感

f:id:oohaman5656:20130309151356j:plain

 日曜日の朝、やっとこさ、まとまった時間ができ、貴重の秋の晴れ間を歩きたいので、銀座のヒグチヨウコさんの展覧会を見に行った。そんなに興味がなかったが、たまたま最終日だし、猫にひかれたのだ。行ってみたら、やっぱり、そんなに興味がわかない。興味がないけど、感心しないわけではない。動物の変化の絵の怖さ、そして、なぜか暖かい愛らしさ、造形作品もおもしろい。主に展示されている最新作の「ギュスターブくん」の本が、猛烈に読みたくなった。そして、改めて思ったのは、今、現実を生きているアートを見るのは、何かしら、意味がある。自分に必要な栄養なんだなあっと思った。封切りの映画をみるのもそうだけど、今吸っている空気がいちばん大切だなと改めて思った。

 その後、一回入ってみたかった木村屋でサンドウイッチを食べた。味と比べてお値段は安いんだけど、普通のコーヒーで400円ましなのは参った。なら、最初からセットの値段を表示してほしい。サンドウイッチはよかったので相応の対価を払いたい。その後、リニューアルされた文具の伊東屋に行ったが、やはり、がっかりした。事務用の消しゴムの多様さとか、中東製とかのちょこっと仕入れてきたカードとか、ムダだけど面白いものがなくなっていた。やたら小綺麗になっていたけど、スカスカだ。銀座なんだから、他で買ってよってことなんだろうけど、店の色がなくなった。どちらも変な風に捻じ曲がっている、これが不景気ということなんだろうか。

 せっかく、わざわざ東京に来たので、帰る途中のダリ展に寄ってみた。行こうと思っていたが、どうも面白くなさそうって迷っていたのだ。教科書のダリをみて、つまんないって言った時、オレには発想もできない偉そうに言うなって、父が言ったのを思い出し、初めて見に行った。深く感じたいので、展覧会は、ハシゴしないのだが、きっと今行かないと、永遠に行かないような気がした。

 見た感じは、かつてシュタイナーの建築の展示を見た時と同じだ。その発想を始めた人としてはすごいし、面白いけれど、たぶん、この発想を消化して、より私の現実をえぐるものは見ているなっと思った。代表作が来ていないのもあるかもしれないけど。もう一つは、パリに行くまでは平凡な画家だったのだなっということ、藤田嗣治のときも思ったのだが、あのころのパリの切磋琢磨とはすごいものだのだ。才能って磨かれないと独自のものが現れないのだと感じた。そして、展覧会で感心したのは、原爆にヒントを得た、赤い記号が強烈な絵だった。しかし、そんなに評価されている置き方ではないなあ、見方がへんなのかなあと思った。しかしですよ、その夜の横尾忠則さんが、ほぼ同じ感想を日曜美術館で語っているのに驚いた。三日前に映画をみたあと見つけた、横尾忠則の「死なないつもり」というエッセイを電車で読んでいたので、見方を洗脳されたのだろうか。テレビの予告編をどっかで見てて、頭の隅っこに残っているっていうこともあるなあ。これは人がいいと思うこと、世間がいいと思うことに惑わされるな。自分の感覚を大切にということかなとも思う。最近、そういうことがあって、ずいぶん救われたなって思うことがあった。なんか、猛烈に自分にもぐるような奇妙な日だった。ほんといい青空の日だったし。

ギュスターヴくん (MOEのえほん)

 

 

よしながふみ「大奥」とトランプ

 ドナルド・トランプのニュースを見ていて、支持者の女性が、彼の女性スキャンダルを評して、「あれは仲間内でエロいはなしをしている男の子なんだから。」って言ってたのを聞いて、女の敵は女じゃなと笑ってしまった。男は、複数の女性とつきあうべきだっていうのは、社会が作った幻想だとは薄々感じていたが、そこをすとんとお腹に落としてくれたのが、よしながふみの「大奥」だった。大奥は幼い時から女性をあてがわれ、複数の女性と付き合うのをよしとする。乳幼児死亡率が高い時代に、幕府といういろんな人を支える頂点を守るために作られた制度である。

 それを女性と置き換えると、華麗な大奥をつくった綱吉も単なる病気とされるニンフォマニアになる。産む性である女性の心身を痛める行為だからだ。そして、相手の男性が女性と同じように子供をつくる道具にされ、心を無視されたと傷つく。それに対して、読者の私は気の毒だと思ったけれど、つよいひっかかりがあった。そこで、女性は、それが当たり前だと思い込まされていたことにやっと気がついた。だいたい、こんなことを男は許すだろうか、許さない。そこをついてるのがこの漫画のおもしろいところだ。そして、入れ替えることで男性が多数の女性と付き合うことも病的であり、強いられたことだと気付き愕然とした。だいたい、母親がわりの女性が、平和を守るためにそれを進めるのだよね。しかし、女性が男らしさを取り込むことが善であるなら、そういった負の部分を取り込んでしまう。こういった現代女性いますね。そういったひとがトランプのそばにたくさんいる。

 たくさんの子供を残すのはよいこと、よいことは周りも褒めるし、自分もみたされる。それゆえに陥ることなんだろう。だから、男たちは、複数の女性にちょっかいをだすドナルド・トランプは男のあこがれだと本人に思い込ませる。そうして、男の子はエッチなもんなんだ。それを許し、はぐらかすのがかっこいい女なんだ。そういったことに麻痺した女性に囲まれて、男性は、自分のきっとしんどいことでもある行為を肯定することを取り込む。だから、たまに拒否されると暴言を吐いてきたんだな。

 むかし、血縁関係で自分たちを守ってきたころ、自分の子孫をのこすことが生き延びるすべだったと思い込もうとしていた。それで起こった争いにうんざりして、文明は進んだのではないか、でも、貧しくみじめになると、ここ百年ほどのことなんか、簡単にすっ飛ばされるのだなあ。相変わらずの昔ながらの男らしさが復活する。

 うん、こんなとんちんかんなことを書くのは、すごく暴力的なおとこに困って、つらいっていったとき、仲間でいた人から同じようなことを聞いたんだよな。「あの人は口が悪いけど、いいひとなのよ。私たちを助けてくれるんだから」でも、やっぱり、弱虫でも、口の悪い人と一緒にいたくないんだよな。そして、今回は、そんなことを我慢している人がありふれていること、そして、それを当たり前と思わないことを思い出させてくれるんだ。

大奥 5 (ジェッツコミックス)